一輪の花
 この花のように、貴女を手に入れたい。
 そう思うのは罪なことでしょうか?



 回廊を歩いている時のことだった。

 ふわりふわりと、空から何かが落ちてきた。
 気配に気がついた男は、欄干に手をつき天を仰ぐ。
 ひんやりとした感覚が掌に伝わった。
「雪……ですか」
 ぽつりと呟いた声は誰にも聞かれることなく、溶ける。
 白い息だけがそこに留まり、声を紡いだ証拠を残した。
 本格的な冬が始まる。
 寒い、凍えるような季節。
 この雪は全てのものを包み込んでしまうだろう。
 院子の椿も、木々も全て。
 きっと、真白な世界が広がる。

「鉛白!」

 高い音が耳に届く。
 その声の主が分かったから、男は笑った。
 愛してやまない唯一の人、丹英華だと知っていたから。
「英華様。
 またお勉強を抜け出してきたのですか?」
「あら違うわ。
 息抜きをしにきただけよ」
 悪びれることなく、少女は答える。
 屈託なく笑う英華はとても愛らしかった。
「貴女はそうお思いでしょうが、周りはそうは思いません。
 違いますか?」
「ええ、その通りだと思うわ。
 でもわたしは息抜きだと思っている。
 それで充分じゃない?」
 目の前の少女は、良い意味で我がままであった。
 丹家の一人娘という立場がそうさせているのだろう。
 男は思いを馳せた。


 この大陸で、丹家は一番の豪族。
 地位を持っている者は、それなりに振舞わなければならない。
 威厳。
 それを保つことは、周囲にとっても大切なことだ。
 人は争いを好む。
 故に、誰かが上に立ち采配を振るう。
 まとめる者はある程度の財力と、地位がなければならない。
 そして、これを上手く扱えなければならない。
 だからこそ多少、我がままでなくてはならないのだ。
 英華は、それをよく知っていた。
 自分の置かれている立場というものを。

「貴女らしいお考えですね」
「褒めてくれてありがとう」
 髪飾りがシャランと音をたてる。
 丁寧な礼に伴って、花のように甘い香りが零れる。
 金銀を贅沢に施した布を纏った少女。
 その背には、肩には。
 どれだけ重いものがあるのだろう。
 ふと、そんなことを考えてしまう。
 気に病んでも何も変わらない。
 彼女への期待は軽くはならない。
 自分には、何の力もないのだから。

「これからどちらへ?」
「本当は園林に行きたかったのだけど……。
 雪が降り始めてしまったし、どうしようかしら?」
 上目遣いでちらりと見つめられる。
 その仕草に、男は苦笑を禁じえなかった。
 相手をして欲しい。
 そう顔に書いてある。
「ご迷惑でなければ、私がお相手をいたしましょうか?」
 気がつかない振りをして尋ねる。
 少女の表情が、パッと明るくなった。
 が、すぐにそれを隠した。
 慌ててという言葉が似合いだと思った。
「それは嬉しいお誘いだけど、鉛白が怒られてしまうかもしれないわ。
 構わないの?」
 微かに頬を染め上げて、少女が聞く。
「ええ。
 英華様と違って、私は大人ですから。
 叱られることには慣れっこです」
 人差し指をそっと唇に当てて、視線の高さを合わせる。
 きらきらと輝く瞳を覗き込む。
 そこには笑った自分の姿があった。

「すごいわね。
 わたしは何度怒られても、絶対に慣れないわ。
 それで、どこへ行くの?」
「この天気でどこかに出かけたら、風邪を引いてしまいます。
 碁でもいたしませんか?」
「うーん、そうね」
「良かった。
 断られたらどうしようかと思いましたよ」
 わざとらしく言うと、少女は両手を腰に当てた。
 ほんの少し不機嫌そうに眉を吊り上げる。

「よっぽど嫌なことでなければ、断らないわよ。
 だって、大好きな鉛白のお誘いですもの!」

 何でもないことのように、英華は断言した。
 それがどれ程に自分を苦しめ、喜ばせる言葉なのか。
 分かっていないのだろう。

 彼女は知らない。
 目の前の男の愚かな心を。
 今すぐにでもさらってしまいたい。
 誰の目にも触れさせたくない。
 自分だけのものにしたい。
 
 そんな醜い感情を持っていることなど……。

「嬉しいお言葉をありがとうございます」
 視線を逸らしたくて、そっと腰を持ち上げた。
 目の高さがいつもと変わらない位置に戻る。
 男は気づかれない程度に安堵の息を漏らした。
「わたし本気よ!」
 怒鳴る声すら愛おしい。
 くるくると変わる表情も、何もかも。
 彼女の全てが恋しかった。
「分かっていますよ。
 では行きましょうか。
 そろそろ火桶が恋しくありませんか?」
 これ以上話をしていられなかった。

 歩いていれば、碁をし始めれば……。
 気を紛らわせることが、出来るかもしれない。

 思いが言葉として形を成す。
「……何でもお見通しね」
 溜息をついて、少女は笑った。
 英華には笑顔が似合う。
 そう、確信した。
「貴女のことですから」
 笑うことしか出来なかった。
 だから、鉛白は微笑んでみせた。




 たった一輪の花を手折りたい。
 罪を犯してみたいと思うのは、生まれ持った性(さが)が故。
 人はそうして生きていく。
 罪に罪を重ねて――。
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