牡丹色
 英華の母、鮮紅妃と呼ばれた人はとても美しい女性だったという。
 
 燃えるような深紅色の髪。
 肌はすべらかで雪のような白。
 その姿は誰もが憧れずにはいられない存在だったという。
 長く伸ばされた髪は艶やかで、州中探しても勝る者はいないと噂されるほどであった。
 その一人娘である英華もまた、花笑みの姫君と称されるほどの容貌を持っていた。
 柘榴石のような瞳。
 裾から覗く肌は真白。
 こぼれる微笑みはまるで、花がほころぶ瞬間のようだった。

 それでも、鮮紅妃を知っている者は口をそろえて英華に言った。
「あと幾年かすれば、お母上と並ぶほどお美しくなられますわ」と。



「ねえ花果。
 どうして私の髪はこんな色なのかしら?」
 梳いてもらっている最中。
 英華は長く伸びた髪を一房だけ手に取る。
「まあ。こんな、だなんて誰がおっしゃったんですか?」
「誰も言ってないわ。
 ただ、自分で思っているだけよ」
 手の中の髪をじっと見つめながら、英華は答える。
 いつだって、どんな時だって皆は言う。
 『あと幾年かすれば……』と。
 言われるたびに、少女は気づかされる。
 今の自分は、母よりも劣っているのだと。
 燃えるような深紅の髪。
 艶やかで誰もが羨まずにはいられない髪。
 そんな髪を持つ母には、一生敵うことなんてできないのだと。
 実際、英華の髪は燃えるような深紅ではない。
 微かにくすんでいて、茶が混じっている。
 それが余計に、少女の心に傷を作る。

 生まれてすぐ、母は亡くなった。
 だから英華は母親の姿を知らない。
 父親や古くから仕えてくれている侍女たちから、伝え聞いたことしかない。
 思い出の中でしか、鮮紅妃のことは語られず。
 良いところしか、告げられない。
 だからだろうか。
 いつもいつも、少女は劣等感に悩まされる。
 憎いわけではない。
 嫌いなわけでもない。
 ただ、胸が苦しくなる。
 手を離すと、髪がはらはらとこぼれ落ちた。
 あるべきところに、戻っていく。
「姫さま?」
 呼ばれて、はっと顔を上げる。
 そこで初めて、自分がうつむいていたことに気がついた。
「何でもないの。
 ごめんね、花果」
 笑顔を作ってみせると、花果は一つため息をつく。
 そしていつものように優しく言うのだった。
「わたしは姫さまの髪がとても好きですからね」
「……ありがとう」
 心からの言葉だと知っていたから、英華はお礼を言った。

 ***

 少女は支度が終わると、一人園庭に出た。
 鮮やかな緑が降り注ぐ陽光を浴びて、きらきらと輝いている。
 色とりどりの花で囲まれていたこの場所も、今では一面に緑を宿している。
 初夏という季節らしい、微かに汗ばむ陽気は少女の心に光を投げかけてくれた。
 自然と、英華は笑みを取り戻し始めた。


「英華さま?」
 ふいに呼ばれて、少女は振り返った。
「あら鉛白。
 こちらに用があったの?」
 瞳に映った人は、数多くいる教師の中の一人・鉛白。
 勉学というよりは、どこかお喋りをするように学を教える彼。
 そんな教師を、英華は快く思っていた。
「はい。……友人に所用を押し付けられまして」
「優しいあなたらしいわ。
 ご苦労さま」
 困ったように、青年が笑う。
 物腰穏やかな人だから、きっと断ることができなかったのだろう。
「ありがとうございます。
 それにしても、お一人ですか?」
「そうよ」
「せめて侍女の一人でもお付けになった方が……。
 ここがいくら邸の中とはいえ、何かあってからでは」
 延々とお説教が続きそうだった。
 だから、英華は言葉をさえぎった。
「大丈夫」
「しかし……」
 まだ不満そうな彼に、英華はとっておきの台詞を言う。
 こういう時は、こう逃げればいい。
 父が教えてくれた言葉を、そっくりそのまま告げる。 
「だってもう、私を守ってくれる人はいるじゃない。
 違うかしら鉛白?」
「そう、ですね。
 腕に自信はありませんが、何かあれば身を挺しましょう」
 ふっと鉛白が笑みを浮かべた。
「頼りにしているわ」
 少女も青年に満面の笑みを向けた。


 二人はそのまま、庭を歩くことにした。
 広い場所だから少し見て回るだけでも、楽しめる。
「緑が綺麗な季節になったわね」
 んー、と少女は背筋を伸ばし、息をはく。
 憂鬱だった気分も、少しずつ晴れてきていた。
「英華さまはお散歩がお好きですか?」
「大好きよ!
 緑と花と風の香りを感じられるでしょう?
 だからとっても大好き!」
 問われて、英華は思いきり元気に答える。
 大好きなことを語るのは、気持ちがいいから。
「それは良かった。
 私もこうして歩くことが好きなのです。
 色々なことを発見できますから」
 青年の瞳は、明らかに輝いている。
 嬉しい、楽しい、と全身で表現している。
 自分よりも年上の青年が、まるで同じ年頃の少年のように見えた。
「たとえば?」
 英華は心躍らせながら、鉛白に訊く。
 白眉の君と呼ばれる彼の目には、どんなことが映るのだろうか?
 年も性別も違う、博識な人はどんな視点でものごとを捉えているのだろうか?
 気になって気になって、少女は答えをせかす。
「そうですね――」
 ぴたりと立ち止まり、青年は周囲を見渡す。
 手をあごの辺りに当て、しばらく考え込んでいた。
 その間も、少女の胸は期待でふくらむばかり。
 彼の言葉が、待ち遠しくて仕方なかった。 
「……ああ、英華さまの髪。でしょうか?」
「えっ?」
 突然のことに、思わず声を上げてしまう。
 『髪』という単語に、胸の奥がドキリとした。
「木々の緑に、紅い髪がよく映えてとても美しい。
 まるで牡丹の花のようですね。
 貴女の新しい一面を、発見できました」
 穏やかな声は、何でもないことのように、さらりと言い切った。
 嬉しそうな表情で。
「美しい……?」
 思ってもみなかった答えに、少女の胸が高鳴る。
 ずっと、聴きたいと思っていた言葉が、心の中にするりと入り込む。
「あ、ええっと……申し訳ありません!
 何だか変なことを言ってしまいましたね」
 我に返ったという顔で、青年は謝罪する。
 ほんのりと、頬は赤く染まっている。
「ううん、そんなことないわ!
 あの、本当に綺麗だと思う……?」
 すがるような気持ちで、英華は青年の服の裾をつかむ。

 今までずっと、言われてきた。
 『あと、幾年かすれば』と。
 この髪を好きだと言ってくれるのは、花果くらいで。
 あとは皆、お母さまの方が美しいと言外に語る。
 お父さまですら、お母さまが一番だと言っていた。
 自分の髪は綺麗じゃなくて、美しくなんかなくて。
 これからもきっと、『鮮紅妃』という人には敵うことはない。
 そう、思っていた。

「はい。とてもお美しいと思います」
 ほんの少しだけ困ったように笑って、青年が告げる。
 嘘ではないと、正直な表情が語る。
 とくん、と鼓動が鳴った。
 頬の辺りが微かに熱くなっていく気がした。
「ありがとう、鉛白。
 とっても嬉しいわ」
 英華は心からの笑みを浮かべた。
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