最期


「行ってらっしゃいませ、顕奕さま」


甄洛は、神妙な面持ちで夫にそう伝えた。
「行ってくるよ、洛。
 母上をよろしく頼む」
「はい」
絶世の美を兼ね備えた女人はしっかりと頷いた。
「……洛、そなたにだけ話しておきたいことがある」
「?
 ええ」 


袁煕に連れ出され、甄洛は院子へと出た。
そこはまだ、花が咲いていて暖かな日が差していた。
戦が行われているとは思えないほど、のどかだった。
「洛、そなたはこの戦をどう思う?」
唐突な質問だった。
本来このようなことに女は口を出さないものだが、袁煕は良くこうして訊いてきた。
『そなたは賢いから』と言って。


「もちろん、名家袁一族の勝利ですわ」


甄洛はにこりと微笑む。
「……本当に?」
その声にびくりとする。
「え、ええ。
 もちろんですわ」
とにかく夫を騙そうとする。
本当はこの戦、負けてしまいそうな気がしてならない。
先の官渡での戦いで、袁家は壊滅的な打撃を受けた。
対する曹家は破竹の勢いでこの乱世を飲み込もうとしている。
兵糧も、兵も、軍略もあちらの方が断然上なのだ。
 

それを、甄洛は知っていた。
夫から聞いていたことはもちろん。
噂は絶えず流れてくる。
袁家は負ける、と。


「……例えばの話をしてもいいかい?」


夫が笑みを浮かべる。
その微笑みがどことなく悲しげだった。
「ええ、もちろん」
甄洛も微笑む。
その心を少しでも癒したくて。

「例えば、だ。
 この戦でこちらが負けても、そなたは生き残ってほしい。
 決して後を追うようなことはしないでほしい……」

「顕奕様……!?
 そのようなこと!」

今までにないくらい弱気な発言に、驚きを隠せなくなる。
彼はもう悟っているのだ。
この戦の行く末を。

「大丈夫、そなたほどの佳人をわざわざ傷付けるような輩はいない。
 きっと誰かが保護してくれる」
袁煕は、そっと髪を撫でてくれた。

「嫌です、私は顕奕様以外の方と……!」

それ以上はあまりにも恐ろしくて言えなかった。
戦の中で女が保護されるというのは、慰み者になるということだった。

「洛、これはもしもの話だよ。
 大丈夫。
 帰ってくるよ、そなたの元へ。
 泣き顔を見たくはないからね」

いつものような優しい微笑み。
決して美丈夫とは言えないが、自分はその穏やかな笑みが好きだった。

「…………。
 はい、お帰りをお待ちしております」

甄洛も微笑む。
泣き顔を、見せたくなかったから。

「……母を、よろしく頼む」

頭にぽんと手が置かれる。
髪に、体中に、温もりが伝わってくるような気がした。

「かしこまりました、顕奕様」

笑みを湛えたまま、甄洛は主人を見送った。



甄洛が袁煕を見たのは、これが最期だった――。


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