楽の音


 十六夜の月が空を飾り、満天の星が瞬く頃。
 雲の合間を縫って、微かな音色が渡る。
 切なげな音色が、心に染み渡る。
 曹魏の時代の担い手、齢十七。
 曹丕は、見ていた竹簡から顔を上げた。
 「甄氏、か……」 

 呟いた独り言は夜の静けさに掻き消される。
 無粋な戦場に咲いていた、一輪の花を手折ってきたのだ。
 怯える彼女を、無理矢理連れ去った。
 玉のように美しい肌に、艶やかな黒髪、一点の曇りも無い澄んだ瞳。
 始めから甄氏を攫うため、官渡の地へと赴いたというのに、一目見た瞬間心を奪われた。

 あの瞬間から、自分の計画が狂いだした。
 「傾国の美女」を手に入れて、皆に披露し、自慢したかっただけだった。
 けれど、思惑は彼女の美貌の前に脆くも崩れ去った。
 恋に落ちてしまったために――。

 「……」

 目を閉じ、耳を傾け、流れ来る音を拾い集める。
 初めて聞く曲だというのに、何故か懐かしい感覚を呼び覚ます。
 優しい音色、感慨にふけるにはちょうど良い。
 物悲しく聴こえてしまうのは、自分のこの想いの所為なのか。
 官渡での戦いが終結し、早七日程。
 形ばかりではあるが、夫婦となったというのに未だ彼女は声すら聞かせてはくれない。
 どんなに美しい着物を贈っても、詩を吟じても。
 寝所にすら近寄らず、彼女はただ、笛を奏でるだけ。
 誰からの贈り物なのかは知らない。
 袁家から、唯一持ち出すことを許された品だった。

 あれは、何を思っているのだろう。
 あの調べは、誰を想って奏でているのか。 

 ふいに、頭を過(よ)ぎる疑問。
 それを解消したいと思うのは、いけないことなのだろうか。

 そこに居るだけで麗しい女。
 笛を奏でる姿は、殊(こと)更(さら)優美であろう。
 
 「ふん……」 

 曹丕はおもむろに立ち上がると、上着を引っ掛け、楽の音の方へと向かった。
 甄氏の影を求めて――。



 誰もが寝静まった頃。
 城内に響くは、二つの音。
 美しい笛の音色と、足早に進む足音。
 城主の子ともあろう者が、供も付けず歩いていく。
 笛の音に呼ばれるように。
 怜悧と称される男は、珍しくひたすらに歩いていた。 

 「ここにいたのか……」

 音の主を見つけ、曹丕は声をかけた。

 「……!!」

 甄氏は怯えたような表情を見せる。
 無論、笛を奏でる手も止まる。
 花薔薇の咲き乱れる院子の中に、彼女はいた。
 咽かえる程の甘やかな香りに包まれ、甄氏はこちらを見つめる。
 懇願にも似たその眼差しがやけに心地好い。

 「一曲所望する。
  何でも良い、奏でてみせよ」

 星月の光に照らされ、玉の肌は真珠のような輝きを見せる。
 寝着に身を包んだ彼女の髪は垂らされ、時たま吹く風で、さらさらと揺れる。
 一瞬戸惑いを見せたが、甄氏は言われた命に従う。 

 瞳を伏せ、唇を笛に押し当てる。
 スッと彼女の周りの空気が変化する。
 緊張感が辺りを支配し、糸が張りつめたような場。
 ここだけが神聖な空間となる。

  ――これが、甄氏の持つ雰囲気――

 今宵の月のように、彼女もまた数多の男を惑わすのだろう。
 儚げでありながらも、そこには絶対的な美が存在する。
 消えることも散ることもなく、存在は確固たるものになっていく。
 
 「あの……子桓様……?」

 「ん、ああ……。
  そなたの音色、存分に楽しませてもらった」

 
 いつの間にか終わっていた演奏に名残惜しさすら感じた。

 「……!?
  そなた、今……!」

 愛しいと想う女が、今始めて口を開いたことに気が付き、思わず声を荒げた。

 「私ごときの楽、お気に召していただき光栄ですわ」

 今度ははっきりと話す甄氏。
 声は至上の糸で紡いだ音。
 微笑みは天上に咲く花の如く。
 月光の下、彼女の全ては煌めきを放っていた。

 

 ――天高く響く楽の音は、二人の間に流れる序曲――


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