望郷


 どこからか歌が聞こえる。
 美しい声が、至上の音を紡いでいる。
 子桓は歩みを止め、それに聴き入った。
 


 誰が歌っているのかなど、明白だった。
 我が妻、甄氏。
 麗しの佳人であろう。
 この城でこれほどまでの楽の才能を持った者は、一人だけだったから。

 
 「帰りたいのか?」
 子桓は妻に尋ねた。
 小さな東屋の中。
 歌っていた女人が振り返る。
 引きずりそうなほど長い裳裾が風にはらみ、甘やかな芳香がする。
 「……今更。
  あなたがそれをおっしゃいますの?」
 彼女にしては珍しく、勝気な表情をしている。
 今しがた聴こえた歌は、多分故郷の歌。
 透き通るような声が紡ぐのは、恋の歌。



 行ってくるよと言った声。
 帰ってくるよと言った彼。
 幾度も空を眺めても。
 何度も地を見つめても。
 未だ貴方は現れず。
 いつまで待てば良いのだろう。
 どこまで行けば良いのだろう。

 帰りたい、帰りたい。
 貴方が傍にいた頃に。
 貴方の傍にいる時に。



 今の甄氏に相応しすぎる歌だった。
 
 「……」
 子桓は黙って女を見つめた。
 特に返す言葉が見つからなかったから。
 だからと言って、目の前の女をさらったことを悔いている訳ではない。
 本当に何を言っていいか分からなかっただけ。
 心は動かなかった。
 
 「帰りたくとも、帰れませんわ……」
 
 視線をそらし、甄氏は答えた。
 年上とは思えないほど、儚げな声で。
 「そうか」
 一言だけ返す。


 どこに帰りたいというのだろう。
 ここではないどこかということだけは分かる。
 過去に戻りたいのか、それとも家に帰りたいのか。
 それすらも分からない。

 
 理由は簡単だった。
 自分には、帰りたい場所など存在しないからである。
 今いる場所しか子桓は知らない。
 過去は過去でしかなく、今は過去にはない。
 思い出すことはあっても、それを懐かしむことなどしたことがなかった。
 第一、懐かしむほど楽しい思い出などない。
 幼い頃から、覇者となるべく言われてきた。
 兄を亡くしたあの時から。
 だから、解らなかった。
 
 帰りたいと思わない。
 帰りたいと思えないから。
 帰っても、何も変わらない。
 ならばここで良い。
 麗しい妻のいる今がいい。
 ここになら、帰りたいと思えるかもしれないから。


 「そなたを羨ましく思うぞ」
 子桓は表情を変えずに言った。
 「……!?」
 弾かれるように、甄氏がこちらを見る。
 その瞳に映っていたのは、明らかに哀れみだった。
 「可哀相な、人……」
 言の葉が耳に届く。
 甄氏はまた、視線を外した。
 「そう思うのなら私を慰めてみろ」
 そう言うと、彼女のすぐ傍まで歩み寄る。
 二人の距離を阻むものなど何も無い。
 むせ返るような甘い薫りがし、子桓は酔いそうになった。
 びくっと怯えるその表情が堪らなく美しい。
 頬をゆっくりとなぞり、あごを掴む。
 そのまま、親指を唇に押し当てた。
 力を込め無理矢理こちらを向かせる。
 蛇に睨まれているかのように、甄氏は瞳を震わせた。
 長い睫毛が、玉のような白い肌に影を落とす。
 「今夜が楽しみだな」
 手を放し、女を解放する。
 子桓はその場に笑みを残し、立ち去っていった。
 
 
 それは暖かな風が吹く、春の頃。
 葉擦れの音だけが響く園でのことだった。




 「帰りたい、な」
 子桓は唐突に声を発した。
 いつもとは違う物憂げな雰囲気に、隣にいた司馬仲達は眉をひそめた。
 「どちらへ、ですか?」
 訊いてほしそうな表情をしていたので、仲達は言葉を返した。
 「あの頃へというやつだ」
 珍しく、皇帝は感慨にふけっている。
 普段の冷酷無比な彼はどこにいったというのか。
 「そうですね」
 仲達はただ一言だけ言い添えた。
 
 
 生涯に一度だけ、子桓はそう言った。
 「帰りたい」と。
 けれど、それがどこへなのかは誰も知らない。
 知っているのは、本人のみであった。


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