隔壁


 雨が地を濡らし、横殴りの風が木々を倒す勢いで吹きすさぶ。
 大地が切り裂かれそうな悲鳴を上げる中、城門が開く。
 入ることを許された人間は、城主である安郷侯の大事な客分であった。


「よう、子建」
 濡れた髪を拭きながら、大柄な男はこちらを見て笑った。
 幼い頃から変わらぬ笑顔に、子建と呼ばれた青年も微かに笑む。
「兄上。急なお越しでしたね」
 用意された椅子に腰を降ろす。
 字を呼ばれたので、青年も兄と男を呼んだ。
 任城王となった男の、こういう気安いところが心地よいと思う。
「すまないな、知らせてる暇がなかった」
 言った男の声は、わずかに曇っているようだった。
 兄が文もよこさずに来た理由はただ一つ。
 時の皇帝は、自分たちが会うことを厭うからであった。
 誰かに気付かれぬためであろう。
 その恰好は下男や賊がまとうような衣で、供の者の姿もなかった。
 武に優れた人物であるからこそ出来ることだと、曹植は密かに思う。
「いえ、構いません。
 こうして訪ねて来てくださるのは嬉しいのです」
 曹植はただ笑う。
 嬉しいのは事実で、兄の顔を見られるのは幸いであった。
「そうか」
 男もまた、笑う。
 その笑顔は自分のものとは違い、真っ直ぐで眩しいものだった。

 ***

 久しぶりの客に、城の者たちは精一杯のもてなしをした。
 卓の上には酒や餅やらが並べられ、食卓は常よりも彩りがあった。
「それにしても、陛下殿は良くやっている」
 しばし酒を飲み交わし、お互いのことを語り合っている時だった。
 曹彰は皇帝の話を持ち出した。
「……ええ、本当に」
 顔を赤らめ、楽しそうに言う兄に向かって、曹植は一つ返事をする。
 それ以上に何と話せば良いのか、分からなかった。
「やっぱりよ、子桓兄上が跡を継いで良かった。
 そうは思わないか?」
「まったく、その通りです」
 酒が入ったせいか、男は『陛下』ではなく『兄上』と呼ぶ。
 まるで時が戻ったかのような錯覚をおぼえる。
 兄上。
 そう自分も呼べたらどんなに良かっただろうか?
 せめて皇帝ではなく、魏王のままでいてくれたら。
 ふと、青年は詮無きことを考える。
 過ぎてしまった時は変えることは出来ない。
 昔へと帰る方法など、決して存在しない。
 それでも、と曹植は思う。
 ただの兄でいて欲しかったと。
「俺はお前や兄上みたいに、詩の才能も政のなんたるかも分からない。
 どの季節にどんな花が開くのかすら、良く分からん」
 男は酒器を卓に置き、頬杖をつく。
 硬質な音が、微かに房に響く。
「兄上らしいですね」
 笑みを湛えて言うと、兄はうんと頷いた。
「だから、俺は兄上が継いでくださって良かったと思う。
 ……父上は間違ってなどいない。
 これが最善の結果だった」
 まるで自分に言い聞かせるような口調に、曹植は首を傾げる。
 そういえば、兄がここに来た訳はなんだったか?
 まだ聞いていないことに、青年は気がつく。
「何か、あったのですか?」
 明らかに憮然とした態度を見せる兄に、問いかける。
 幼子のように感情をつかみやすい男は、一体何を思っているのか。
 曹植は、ただ一人となってしまった兄を気にかけた。
「いや、気に留めるほどのことでもないさ。
 少し噂を耳にしただけだ」
「噂ですか?」
 もう一度問うと、曹彰は酒器をつかんで思い切り仰ぐ。
 そして、勢いよく卓に置いた。
 大きな音に驚いて、青年は思わず身を固くする。
「くだらん話よ。
 俺たちが兄上に冷遇されているだとか、恨んでいるだとか。
 まったく、話にならん」
 不機嫌そうに言う男の瞳は、純粋な色をしていた。
 直視することが出来ず、視線は自然と床を見つめた。
「……そんな噂が、あるのですね」
 安郷侯に任ぜられてから、外の噂に弱くなった。
 新しい風が吹き込むことは珍しいことで、ここは常に暗く、留まった空気が張り詰めている。
 それでも、自分の置かれた立場くらいは理解していた。

 目の前に座る兄は知らない。
 政に疎い兄は知らないのだ。
 今の自分がどれほどの地位であるのかすら。
 兄弟であった主上が、どれほど自分たちを憎んでいるかすら。
 そして、自分がどれほど皇帝を憎んでいるのかを。

 ただの兄弟であったなら。
 ただの主と臣下であったなら。
 これほどまでに苦しむことはなかっただろう。
 あの方が皇帝になどならなければ良かった。
 停滞を好む人であれば良かった。

 ここは寂れていて、暗い。
 曹彰が褒めてくれる才を発揮することも出来ない、意味のない場所。
 兄の目は届かぬが、同時にそれ以外のものからも隔離された世界なのだ。
 詩の才があっても意味がない。
 都にいなければ、埋もれてしまう。
 寂しさと切なさが重く圧し掛かり、息が出来ない。
 跡目など、継げなくとも良かった。
 ただ都にいられれば良かった。
 それなのに、今自分はどこにいる?
 こんなことならば、自分が太子として立ちたかった。
 ……そう思ってしまうほどに、心は蝕んでいた。

「そう気に病むな。
 俺たちは兄上を信じているし、恨んでもいない。
 堂々としていればいいだけのこと」
 肩を叩かれて、曹植は我に返る。
 強い意志を瞳に抱き、兄は微笑んでいた。
「はい」
 心配をさせる訳にはいかないと思い、曹植も笑みを浮かべる。
 せめてこの人のように、強い心が欲しいと思いながら。
「さて、せっかく来たんだ。
 今日は二人で飲み明かそうじゃないか」
「ええ、そうですね」
 二人は笑みを交わしながら、酒を酌み交した。
 
 

 安郷侯の元には、時折人が訪ねて来る。
 大柄で、山賊のようにみすぼらしい服を着た一人の男。
 それは必ずと言っていいほど、嵐のようなひどい天候の日だった。
 その男が任城王と知る者は、ごく僅かであったと言う。


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