狂おしいほどに


 なぜ、泣いているの?
 なぜ、悲しいの?
 分からない。
 分かりたくない。
 認めたくはない。

 だから、ただ涙を流す。
 全てを忘れてしまいたいから。
 全てを拒んでいたいから。
 
 もう、これしか術がない。




「何を泣いている」
 部屋の戸が引かれ、その人物は入ってきた。
 突然現れた男は、眉一つ動かさず声を放った。
 夜の帳は降り、空には星が輝く頃。
 冷酷と称される男は、月明かりを背に立っていた。
 
「何も、何でもありません」
 溢れてくるものを拭い、そう答える。
 理由など知っていた。
 溢れ出る涙は、明らかに眼前の男のせい。
 曹子桓。
 不本意ながらも夫である、この男がいるせいだった。
「申せ」
 冷たい視線が突き刺さる。
 声に抑揚などはなく、ただあるがままに発せられた音として響く。
「私ごときの戯言。
 耳を傾ける価値など、ございませんでしょう」
 涙をすっかり拭いて、男の方を見る。
 泣き崩れ、榻にすがりついていた自分に曹丕が近づいてきた。
 その装いは寝着。
 仄かに香るは沈香。
「申せと言っている。
 聞こえなかったのか?」
 更に鋭い声が降ってくる。
 甄洛はびくりと体を震わせた。

「……ある方を……。
 あるお方を思って泣いておりました。
 ただ、それだけにございます……」

 瞳を伏せ、静かに告げる。
 甄洛は、正直に命に従った。
 誰とは言わない。
 言っても栓の無きこと。
 自分の発する音になど、意味は無いから。
「ふん。
 さっさと申せばよいものを。
 手を煩わせおって」
 夫に手を掴まれた。
 そのまま、甄洛は立ち上がらせられた。
「……何をなさいます」
 微かな抵抗を試みる。
 視線を合わせようとはせず、突き放すように言葉を投げる。
「このような時分に来たのだ。
 用は一つに決まっておろう」
 その言葉に、女は顔を上げてしまった。
 口の端だけを上げて、曹丕は笑っていた。
 ああ。
 と甄洛は思った。
 
 この人にとって、自分はそういう存在。
 性欲を満たすための道具なのだ。
 愛などというものはなく、そこにあるのは欲望だけ。
 独占ではなく、服従させることが彼の喜び。
 
 若い漢らしい考えであった。
 
「…………お妾をおとりくださいませ」
 また流れてきそうになったものをこらえ、女は呟いた。
 心の叫びが音になる。
 これ以上は、耐えられなかった。
「何と言った?」
 怒りに触れたのか、声が少し低くなった。
 それすら、今の甄洛にはどうでも良くなりかけていた。
「……お妾を。
 どうぞ、天を望むのでしたら。
 お義父上の跡をお継ぎになりたいのでしたら、どうか……」
 限界に近かった。
 こうほぼ毎夜、たった一人で相手をするのは。

 情事の跡、胸に残るのは焦燥感。
 虚しいという気持ちだけが、心を蝕んでいく。
 快楽に身を任せ、狂えてしまえたらどんなに楽だろう。
 苦しみを感じないでいられたら、どれだけ嬉しいだろう。
 出来ないことを羨んでも、何も始まらない。
 それでも、ふと願ってしまうことがあった。

 この人と心を通わせてみたい、と――。

「そんなことは分かっている。
 言われなくても、すぐに望みを叶えてやろう」
 ふっと声がもれる。
 闇の中に解けるような音が発せられた。

 立つことすら出来ないほど泣き疲れていた女を、男は抱えた。
 闇が支配する時の中で、男女がすることなど一つしかない。
 曹丕は、そのまま寝台に向かう。
「恨むなら、不甲斐のない元夫を恨むんだな。
 ここにいることを知りつつも、迎えに来ない意気地のない男を」
 寝台に半ば放り投げられる。
 覆いかぶさるようになり、弱冠の男は言った。
「……はい」
 力なく、甄洛は答えた。

 重なる唇に酔いながら、女は涙を流した。



 この男を、愛したことを悔やみながら――。


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