03.片側思い

 駅から自宅までの距離は、成人男性の徒歩10分。
 畑が点在するような住宅地は、電燈の数が少ない。
 物陰に不審者が隠れていても、きっと気がつかない。そのくせ、家々の灯りが邪魔で、天体観測には不向きときたものだ。
 薄暗い道を青年は歩いていた。
 残業のくりかえしで、定時で帰ったことはない。就職なんてそんなものだろう、と諦めが心に落ち着いてきた。
 胸ポケットに入れた携帯電話が、一昔前の流行歌を歌う。
 携帯電話を開いて、通話する。
『《黄昏》元気してる?』
 耳に聞こえたのは、明るい男性の声。
 着信音でわかっていたはずなのに、がっかりする。仕事でくたくたなところで、何が嬉しくて野郎の話に付き合わなきゃいけないのか。考えたくもない。
「呼ぶなよ、リアルで。
 恥ずかしい」
『安心しろ。こっちは家だ』
 学生時代のトモダチは、あいも変わらず天動説らしい。
「こっちは路上だって」
 青年は右耳に携帯電話をあてながら、首をひねる。パキッと関節が鳴る。最近、肩こりがひどいような気がする。
『いいじゃん。《黄昏》で。
 誰も本当の名前なんて、呼ばないんだし』
「仕事先と実の親ぐらいは、呼んでくれるさ」
『ふーん。上手くいってないの? 親と』
「さあ? 最近、顔を見てないから、知らね。
 フツーだろ」
 就職して、一人暮らしを始めれば、ある程度疎遠になるのは当然だろう。
 比較的上手く、親離れ、子離れしたと思っている。
『さばけてんなー』
「むしろ、何の用だよ」
『最近、姿見えてないからさ。《shi》ちゃん」
「探りかよ」
『彼女、元気?』
「なんで俺に訊くんだよ」
『カレシだろ』
「いつの間に」
『違うって?
 半同棲してるって、話になってるけど。
 結婚まで、秒読みだって、ね』
「全然、違うね」
『そういうことにしておいてやろう。
 どちらにしろ、《shi》ちゃんに詳しい人物には違いない』
「最近、雨が多いからなぁ。
 今日は曇ってるから、ちょっとは違うんじゃね?
 メールでも送れば?」
『文通と変わんないんだって。
 平気で返事が2日後〜。だったりするし』
「オンラインになったのを見計らって、チャットに引きずり込むしかないんじゃねーの?」
『今日、一日見張ってたんだけど、一度もログインしてない』
「ネットストーカーとして訴えるぞ」
『友人の一人として、心配してんだって。
 孤独死とか、しちゃいそうでしょ』
 ありえそうな話だった。
 雨の日は、何もやる気にならないと、冬眠もどきを敢行したという前科が《shi》にはあった。
 当然、人間が冬眠できるはずもなく、脱水症状が出たために、3日ほど病院にお世話になったのだ。
 丸3日間点滴を受け続けなければならないほど、危ない状態は後にも先にもあれっきりだが、軽いものはこまめにくりかえしている。
 病的なまでに白い腕には針の跡がいくつもあり、それは増えていく一方だった。
「……電話つながんないようなら、こっちから家に行ってみる」
『《黄昏》優しいぃ〜。
 やっぱ、《shi》ちゃんのこと好きでしょ。
 お似合いだからまとまっちゃいなよ』
「うるせぇ」
『というわけで、情報は回せよ』
 言いたいことだけ言って、電話は切れる。
 青年はためいきをついた。
 寝る前にやることが増えてしまった。
 どうも厄介ごとを引き受ける体質にある……と思いながら、自宅の前に立ち、止まる。
 築二十年越えしているアパートの一階の角部屋――家賃と駅までの距離が気に入って一部屋借りている――に電気がついていた。
 予感しながらノブを回す。……ノブは容易く回った。玄関に鍵はかかっていない。
 もちろん朝、家を出るときに、消灯して、施錠した。
 この辺が田舎とはいえ、無用心をできるような治安ではない。
 青年はためいきをついた後、玄関のドアを開けた。
 入ってすぐにある台所で、少女が硬直していた。スパゲティを握り締めたまま。
 目の前には湯が沸いている大鍋。
「二人分」
 《黄昏》は言った。
 少女が持っているスパゲティは、どう見ても一人前だった。
 《shi》はまな板の上に持っていたスパゲティを置き、流し下の観音扉を開く。縦長の硝子ポットから、もう一人前スパゲティを取り出す。
「戸田が心配していた。
 最近、顔を見せないから」
 《黄昏》は靴を脱ぎ家に上がる。
 洗面所で手洗いをするのは、子ども時代のしつけの賜物だろう。
「……とだ」
 《shi》はスパゲティをねじった後、大鍋にすべらす。菜ばしを使って器用に、スパゲティを湯に沈めていく。
 その仕草が実家の母とかぶる。
「《グングニル》」
「そういえば、最近、話してない」
 少女は呟くように言う。
 リアルの知り合いですらハンドルネームで認識している。というのが、わかる。
 現実と距離を置きながら生きていく。現代病といえばそれまでの、わかりやすい生き方だった。
 少女にとって、世界は理不尽で、裏切りに満ちている。信じられる小さな環の中だけで、すごしていく。小さく、歪で、閉塞的な環の中で。
「それで他人の家で何やってんだよ」
「おなか空いたから」
 《shi》の足元には駅前のスーパーの名前が入ったビニール袋があった。
 空腹を感じて買い物に行ったものの、自分の家に帰るまで耐えられそうになかったので、通り道にある他人の家の鍵を開けたようだった。
 今月に入ってからは、初めてだ。と、《黄昏》は記憶をたどる。
 予想以上に、雨が嫌いになっているようだ。
 ぼんやりとした口調とは裏腹に、働き者の手は忙しく動いていく。
 野菜を切り、大鍋の様子を見ながら、フライパンに食材を入れる。
 香ばしい匂いが台所に満ちていく。
 感心半分、安心半分で、青年はタンスのある寝室に向かう。
 朝、適当にたたんでいった布団の上に、ジーパンとT−シャツが几帳面にたたまれていた。
 部屋の鴨居に渡してあった物干し竿は、部屋の隅に追いやられていた。
 青年はスーツをハンガーにかけ、洗濯物はちょうど良く置かれていた洗濯籠に入れる。
 着替えをすまして、居間である洋間に出ると、冷たいグラスと缶ビールがテーブルの上に載っていた。
 戸田に勘違いされてもおかしくはない、と思いながらプルタブを上げる。
 氷のように冷たくなったグラスに、ビールを注ぐ。
 居酒屋で飲むように細かい泡が立つ。
 こういった気づかいの影に、実の母がチラチラする。
 不快ではない。
 《黄昏》は、アルコールを胃に流し込む。
 が、それでいいのだろうか、と思う。
 教えられたから覚えたのだろう。
 知っていて損になるようなものでもない。
 でも……《shi》はあまりにも、《shi》の親に似ていない。
 青年のどうしようもない悩みを無視して、テーブルに料理が並んでいく。
 コンソメの野菜スープ。野菜がコンカッセになっているのは、火の通りを早くするためと、食べやすさの両面を考えてだろう。
 小松菜のソテー。サーモンのムニエル。茄子ミートのスパゲティ。
「ミルク寒天、冷蔵庫の中にあるから」
 《shi》はテレビの電源を入れる。《黄昏》が食事のとき、ニュースを見ることを知っているからだ。
 おおよそ食事に相応しくない時間なので、ニュースは殺伐したものになるが、ここでニュースを見ておかないと、偏るのだ。
 世間とネットでは、重要視されるニュースが違う。
「今日はPCつけろよ」
 香りを裏切らず、晩御飯は美味しかった。
 どれも食べやすい温度で、店で出してもおかしくはない味だった。
「帰ったら」
 《shi》はスパゲティを箸でつまむ。
「飯食ったら、送っていく」
 帰るかどうか、も怪しいので青年は言った。
「《黄昏》は親切だな」
「じゃないと、また寝るだろう」
「布団は二組あるのだから、問題はないだろう」
 一人暮らしを始めるときに、母親から押しつけられた、ちょっと上等な布団は《shi》専用になっている。
 それを見越していたのか、布団カバーは可愛らしい羊柄だった。
「ちょっとは遠慮しろよ」
「《黄昏》も、私の家で寝ていく」
 突き散らかすように《shi》はムニエルを食べる。食べるのに飽きてきたのだろう。
「ほんの2、3時間だろ?
 《shi》は8時間以上寝ていくだろう」
「何故だか、自分の家よりも眠れる。
 きっと《黄昏》の家が畳だからだ」
「変な結論は出さんでもいい」
「《グングニル》と話すなら、ここでも良い。
 PCがある」
 自分の分のスパゲティとムニエルをどうにか食べ終えると、《shi》は箸を置く。
 空いた皿を重ね、流しに運ぶ。
「この家のPCからだと、IPでわかるだろ」
「問題あるのか?」
 《shi》は、冷蔵庫から200mlの紙パックを取り出す。抹茶味の豆乳だ。
「半同棲と疑われてるんだよ」
「……それは《黄昏》のカノジョに悪いな。
 気分が良いものではない。と思う」
 《shi》は納得したようだった。
 カノジョがいたら、夜更けに他の女を家に上げるなんて、ヘマはしないけどな。
 《黄昏》は心の中で呟く。
「そのうち帰る」
 白い手がぷっつりと、紙パックにストローを刺す。
 黒目がちな目は、テレビのほうを見た。
 会話はそれきり途絶える。
 明るくないニュースが伝えられていく。
 背を丸め、テレビを見つめる少女の横顔には、感情というものが足りなかった。
 いつもの景色だった。
 違和感を感じないことに、そろそろ恐怖を感じたほうがいいのだろうか。
 青年は思った。
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