04.等身大で

 日差しが射るように暑い夏の日。
 村上本家の宗一郎に与えられた一角、その縁側に面した明かり障子の一つが閉められていた。
 門から遠く、庭に面しているため、ガラス戸と共に開け放たれていることが多い場所だけに、珍しかった。
 その障子の後ろで、宗一郎は薄い本を読んでいた。
 落ち着いた色のカバーがかけられた本の中身は、詩集だった。
 少年自身が、ソネットをこよなく愛しているわけではない。
 借りたからには最後まで読まなければならない。
 そんな義務感から、読んでいた。
 障子が作る薄い影の中、ページをめくる。
 ふいに、夏よりも熱い輝きを視覚が捉える。
 他の流派が口にする「気の流れ」というものに良く似ている。
 少年は顔を上げ、障子を開けた。
 読み止しの詩集に、しおり代わりのローズベージュのリボンを挟む。
 程なくして、青々とした椿の生垣からひょこっと、少女が顔を覗かせる。
 村上燈子。
 宗一郎と同じ姓を持ち、同じ歳の少女だ。
 けれども、その中身はまるっきり違う。
 上等な月の光でとられた型の中に、サファイアの炎で煮溶かした微細な硝子粉が入っている。
 雲の上でも歩くような、重さを感じさせない足取りで、燈子は縁側までやってくる。
 日に焼けない真っ白な手が縁側に、ちょこんと載せられる。
「宗ちゃん。暑いね」
 燈子は綺麗に切ったスイカのように口を開く。
 半月のように口元。
 暑いと言ったのに何故か暑さを感じさせなかった。
 きっと、それは燈子だからだ。と、宗一郎は思った。
「夏だからな」
 そう言ってから、ありきたりのことを言ってしまった、と後悔する。
 自分は、つまらない人間だ。
 当たり前のことを考え、当たり前のことを言う。
 キラキラと輝く燈子とは違うのだ。
「うん、夏だね」
 燈子はうなずく。
 それは嬉しそうに。
 体全体を使って、大きくうなずく。
 馬の尻尾のように高くくくられている髪も揺れる。
 漆黒の闇がサラサラと零れる。
「宗ちゃんは夏が嫌い?」
「燈子は夏が好きなんだろう?」
「うん、とーこと同じ色してるから」
 燈子は言った。
 少女の持つ色は、火のようなオレンジ色。
 とうの音は、橙にも通じるから、あながち間違いではない。
「それにね。
 夏はいっとうお空が青くなるでしょ。
 宗ちゃんと同じ色になるの」
 燈子は真剣に言う。
 宗一郎は、空を見上げる。
 この季節らしい濃い青の空が広がっていた。
「だから、大好きなの。
 宗ちゃんも好きになってくれたら、もっと嬉しくなれるよ」
 燈子は言った。
 少女の世界は眩しくなるぐらいに、キラキラしている。
 透明で、虹のように光を内包していて。
 すでに遠くになってしまった世界の中で、まだ燈子は呼吸している。
 一緒に育ってきたはずなのに、燈子は燈子のままだった。
 変わらない。
 ありのままで、取り繕ったりはしない。
 それが羨ましく思え、眩しく見える。
「嬉しくなりすぎて、燈子が空を飛んでいってしまうと困るから」
 宗一郎は言葉を切った。
 冗談ではなく、少年は思う。
 拍子抜けるほどあっさりと、幼なじみは消えてしまうのではないか、と。
 目の前から消えて、夢の世界へと旅立ってしまうのではないか、と。
 ……不安に襲われる。
「困るから?」
 無垢な燈子は幼子のように小首をかしげる。
「好きにはならない」
 宗一郎は言った。
 大きな燈子の目が見開かれる。
 繊細な長い睫毛に縁取られたそれは、小さな宇宙のようだった。
 暗く、それでいてキラキラしていた。
 小さな口が息を呑み、それから吐き出す。
「宗ちゃんって、不思議。
 困ると好きにならないの?」
 燈子は尋ねる。
 宗一郎は答えなかった。
 読みかけの詩集に手を伸ばす。
 パラパラとページがめくられ、止まる。
 ローズベージュのリボンが挟まった場所で。
「夏が嫌い?」
 高く澄んだ声がもう一度、尋ねる。
 宗一郎は口を引き結ぶ。
 リボンを本の見返しに挟む。

「とーこのこと嫌い?」

 宗一郎は本を取り落とした。
 縁側に詩集は落ち、閉じられた。
 ひらりっとリボンが零れる。
 宗一郎は燈子を見た。
 真っ直ぐな黒い瞳と出会う。
 少年は迷った末に、手を伸ばす。
 小さな頭をそっとなでる。
 汗ばんだ手の平には、細い髪は頼りげない。
「燈子が好きだ」
 言葉を飾ることなく、宗一郎は思ったままに言う。
 疎ましく思った時期もあった。
 苛立ったときもあった。
 それでも、あの出会いの日から、ずっと一緒に生きてきた。
 嫌いになれるはずのない自分の半分だ。
 二人っきりだったから、離れることが苦痛と感じるほどに、ずっと一緒だった。
「うん」
 燈子は嬉しそうに笑った。
 それは夏そのもので、とてもキラキラしていた。
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