07.優しいしぐさ

 薔薇の研究院では私室に鍵をかけない。
 だから、自動扉は女性が立っただけで開く。
 サイレント・ソングと呼ばれる機械特有の重低音を響かせながら、滑らかに。
 片付いているというよりも、何もないという言葉のほうが近い私室。
 私物らしい私物がない部屋だった。
 作りつけの樹脂ディスクの上に、標準備品の機械端末があり、その横には数枚のディスク。
 ディスクには研究名とナンバーが印字されている。
 その横には小さな立体モニターがあり、部屋の主はそれを眺めていた。
 プレーンな壁にモニターの鮮やかに踊る。
 宇宙で流通している家庭用録画機で撮影された光景だった。
 人工光の中で、スクールに上がる前の子どもだろうか、笑っている。
 一人は考えなしに。
 もう一人は緊張した風に。
 撮影されることに慣れていない子どもの目の色は、真紅。
 それと同色の瞳がシユイを見つめて、微笑んだ。
 10年以上の時間が圧縮されて、そこにはあった。
「訊きたかったことがあるの」
 シユイは切り出した。
「どうぞ」
 真紅の瞳を持った恋人はおどけたように笑う。
 立ち上がり、樹脂作りの椅子を紳士的な仕草でシユイに勧める。
「私のどこを好きになったの?」
 シユイは遠慮なく椅子に腰かけ、テーブルに手を置く。
 温度変化に影響されない樹脂のテーブルは、フラットでプレーン。
 無駄なものをそぎ落とされている。
 普段であれば安心感を覚えるのだが、女性は不快感を覚えた。
「全部だよ」
 ディエンは即答した。
「ちゃんと答えて欲しいの」
 シユイは自分の髪に手をやる。
 強い癖がある金褐色の髪を一房、人差し指で巻き取る。
 毎日、洗髪している髪は癖を思い出したように、クルッとカールする。
 幼なじみ兼同僚兼恋人は、肩をすくめる。
「本当に全部だよ」
 ディエンは言った。
 懐かしそうに、立体モニターを一度見つめてから、スイッチを切る。
「質問を変えるわ。
 私のどこが嫌い?」
「高慢なところ。
 嫌われるなんて思ってもいないのに、こういう質問をしてくるところかな」
 青年はシユイの向かい側に、椅子を持ってくると座りなおした。
「私って性格が悪いみたいね」
「そんなところも魅力的だけどね」
 ディエンは自然に言う。
 それで、すべてが解決してしまったような気がして、シユイはほっとしてしまう。
「あなたは口が上手すぎるわ」
 研究の話だったら、それで良かったのかもしれない。
 シユイは確認していないし、納得していない。
 その感情が自嘲気味の笑みを浮かべさせる。
「世渡り下手だと評判だけど?」
「どこで?」
 シユイの指先が髪を離す。
「この研究院。つまり薔薇の研究院で、だ」
「トップが?」
 シユイは眉をひそめた。
 第一位研究員と呼ばれる存在が、社交性がないとは思えない。
 こういった分野は幼なじみの得意分野である、とシユイは信じていた。
「暫定的なトップだよ。
 来年には変わってるだろうね」
 熱意のこもっていない声が言う。
「イールンもそうだけど。
 トップって、そんなものなのかしら?」
「味気のない立場であるのは確かだろうね。
 トップだからといって、研究院をどうこうできるわけじゃない。
 まあ……研究を正当に評価されるのは、喜ばしいことだけれど」
 それだけだ。とディエンは寂しげに笑った。
 寂しそうにシユイの目には映った。
 無音恐怖症の青年は、孤独が嫌いだと聞く。
 人一倍、寂しさに敏感なのだという。
 教えてくれたのは『シンパシー』持ちの少年だから、確かなのだろう。
 シユイが推論をするよりも、根拠のある答えだ。
「話を戻しても良いかしら?」
 意を決して、シユイは言った。
「お好きなように」
 ディエンは背中を押すように、穏やかに言う。
「私はあなたが好きなの」
 シユイはキッパリと言った。
 真紅の瞳がシユイを見つめる。
 驚いたように大きく見開き、それから優しく細められる。
「君の瞳にもそう書いてある」
 ディエンはシユイの瞳を覗きこむ。
 生命の色が透き通った紅い瞳。
 ありきたりなヘーゼルの色よりも、貴重な色だ。
「知らなかったのよ。
 あなたがいつまでも優しかったから」
 シユイはテーブルに視線を落とし、ためいきをつく。
「あなたはいつでも私に優しかったわ。
 そうね。
 ずっと優しかった」
 シユイがディエンの家の隣りに越してきたときから、ずっと優しかった。
 高等生命体を扱うことを許されるほどに、強い道徳心を持っているのだから、当然なのかもしれない。
「人を好きになるのって、こんなに辛いのね。
 あなたは、こんな気持ちをずっと抱えていたの?」
 微笑もうとして、微笑めなかった。
 胃の辺りがキリキリと痛む。
「シユイ」
 優しい声が名を呼び、テーブルの上に置き去りだったシユイの手にふれる。
 大きな手はかさついていたが、人の温かみがあった。
「ダメね。泣きたいわ。
 あなたに言うんじゃなかった」
 後悔している。
 気がつかなければ、そこで話は終わっていたというのに。
「何があったんだ?」
 辛抱強い幼なじみが問う。
「私は生まれてきたことを誇りに思っている。
 だから、なかったことにしたくないの」
 シユイは顔を上げた。
 生まれてこなければ良かった、と思いたくない。
 出会わなければ良かった、と思いたくない。
「俺はシユイの全部が好きだ。
 そう、たとえば……女神のように美しいところも、愛しているよ」
 ディエンは微笑んだ。
「やっぱり、知っていたのね」
 落胆している。と自分の声を耳で聴いて思った。
 知られたくなかった。知って欲しかった。
 両極端な感情が生まれる。
「出会う前から知っていたよ」
 青年は静かに言った。
「どうして……?」
 それ以上、言葉にならなかった。
 知っていたのに、どうして好きになったのか。
「俺と君の違いは些細だ」
「大きいわよ」
 シユイは言った。
 データで真紅と書かれる瞳は、ナチュラルの証明だ。
 人工的な赤は簡潔に『赤』と表記される。
 手が加えられていない遺伝子。
 シユイとは違う。
 受精卵の段階で手を加えられた遺伝子とは違うのだ。
「ヤナとイールン研究員よりも差は小さいだろう」
「比べる対象が間違っているわ。
 あれだけ差がある恋人たちなんて……」
 宇宙中を探してもいない。
 シユイは苦笑した。
「そうだったわ。
 あの二人の強さったら、どこから来るのかしら?」
 地球純血種の少年と生体機械の少女。
 法の下では平等だというが、いや、だからこそ、その出自は法によってしか守られない。
「ありきたりな悩みのような気がしてきたわ」
 シユイは言った。
 泣き出したところで変更不可なのだ。
 生まれる前から、答えは出ていたのだから。
 それでもシユイはここまで生きてきた。
「たまに思うよ。
 俺なんかで良かったのかなってね」
 差し出された慰めに、シユイは微笑んだ。
「似てるわね」
 呟くように言った。
 似てるだけで、絶対には同じにはならない。
 わかっていたけれども、シユイはそういうことにしておいた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 色眼鏡のない双眸は気持ち悪いほど鮮やかで、シユイは笑顔を作った。
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