10.夜の声が誘う

 村上では夜を禁忌としている。
 太陽の恩恵を受けている一族だから、という理由だろうか。
 陽の光がない場所では充分に力を放てない。
 ただの人間と同じになってしまう。
 けれども……。

 宗一郎は障子を開け、窓ガラスを開ける。
 涼しい風がふわりと宗一郎を撫でていく。
 それはちっとも不快ではなかった。
 夜に呼ばれているようだ。
 宗一郎はパジャマ姿のまま、夜の庭に出た。

 かさりっ

 賑やかな昼間だったら聞き落としていそうな音がした。
 艶々とした葉を持つ佐保姫の生垣から、幼なじみの顔がひょっこりと出てきた。
 寝る前だったのだろう。
 ギンガムチェックのブラウスにデニムのスカート姿だった。
「宗ちゃん」
 昼間聞くよりも幾分、小さな声が名を呼ぶ。
 だから、宗一郎も
「燈子」
 と、小さく呼んだ。
 都合よく揃えてあった靴を引っ掛け、宗一郎は燈子のところまで歩く。
 全身で浴びる風は、少し涼しすぎるようだった。
「呼ばれたような気がしたの」
 深遠たる宇宙にダイヤモンドを惜しげもなく撒き散らしたら、こんな瞳になるのだろうか。
 繊細な睫毛に縁取られた大きな瞳は、キラキラと輝いていた。
「俺もそんな気がしたんだ」
 宗一郎は言った。
「誰が呼んだんだろうね」
 燈子は小首をかしげた。
 艶のある細い髪がさらさらと流れ落ちる。
「たまたま、そんな気がしただけかもしれない」
 寝る前に燈子のことを考えていたから、呼んでしまったのかもしれない。
 小さな燈子の明日も幸せでありますように。
 と、贅沢な願い事を星に向かってしたせいかもしれない。
 それが異能で伝わってしまったのかもしれない。
「そう」
 こだわりがなかったのか、燈子はそれで納得したようだった。
 佐保姫の生垣の前に立っていても、燈子の可憐さは変わらない。
 真っ直ぐでキラキラして、手を伸ばしてはいけない清浄さがあった。
「こうして宗ちゃんと外にいられるっていいね」
 村上燈子だからできる。
 村上宗一郎だからできる。
 月というわずかな光、星というかすかな光さえあれば、闇が怖くない。
「そうだな」
 寡黙な少年はうなずいた。
 燈子の指が宗一郎の小指と薬指をきゅっと掴む。
 そして、静かに宗一郎を見上げる。
「ずっと一緒がいいね」
「ああ」
「宗ちゃんは何にかけてくれる?
 お日さま、お月さま、それとも自分自身?」
 燈子は楽しそうに微笑んだ。
「ずっと一緒にいる。という言葉だけでは頼りないか?」
「言葉は言葉。
 大切だってわかってる」
 コトンと燈子の小さな頭が宗一郎の胸に当たる。
「けれど。
 村上っぽくないこともしてみたくなるの」
 心臓の近くでささやかれた言葉は、砂糖水よりも甘かった。
「そうか」
 ロミオは月に誓いを立てて、ジュリエットは夜毎姿を変える月は不実だと言った。
「自分自身に誓いを立てればいいのだろうか?」
 こんなにも移りやすい心に、一生の想いにかけてもいいのだろうか。
 毎日、目まぐるしく変化していく日常に驚き、変わっていく心に誓いを立てるのは、おかしい気がした。
「じゃあ、何に誓いを立てるの?」
「ずっと一緒にいる約束には、誓いが必要ないんだ、と思う。
 破る気がないのだから」
 誓いを立てるほど柔な約束ではない。
 それが答えのような気がした。
 少女は顔を上げた。
「宗ちゃん、ありがとう」
 燈子は顔のパーツをいっぱいを作って笑う。
 それは頑是無き子どもの笑顔と同じで、宗一郎が一番好きな笑顔だった。
「とーこ、宗ちゃんのこと大好きだよ」
 小さな燈子は腕ぜんぶを使って、宗一郎を抱きしめようとした。
 少年は夜で良かった。耳まで赤くなっていることがわかっただろうと、思った。
 太陽の光で溶かして作った繊細な硝子細工にふれるように、宗一郎は抱きしめ返した。
 自分よりも柔らかな肌。自分よりも少し高い体温。自分よりも少し早い脈。
 それはとても脆く、簡単に壊れてしまうから、大切に守らなければならない。
「俺も、燈子が好きだ」
 宗一郎は言った。
 誰に誓う必要もない。何に譬えなくてもいい。
 ここにあるこの気持ちだけが大切なんだ。
 少年は、ようやく気がついた。
 これを伝えるために、燈子を呼んだのかもしれない。
 静かに、ひっそりと、わずかに残った異能で。
 村上姓を持つ者が邪魔しない夜という時間帯に。
「とーこ、嬉しい」
 少女は少年により強く抱きついた。
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