12.指折り

 それを見たのは偶然だった。
 シユイはバインダーを抱え廊下を歩いていた。
 現在進行形のプロジェクトで、ちょっとした疑問が湧いてきたためだった。
 薔薇の研究院では報告、連絡、相談は必須とされている。
 自分勝手に案件を進めてはいけない。
 逐一、リーダーに話さなければならないのは、正直なところ面倒だった。
 が、仕方がない。
 ルールはルールだ。
 携帯端末に連絡を入れたものの、ディエンの姿は見当たらない。
 そのためシユイはバインダーを抱えて、歩き回る破目になったのだ。
 だから、それは本当に予想外だった。
 人気のない廊下にディエンを見つけた。
 その傍には見慣れない研究員が立っていた。
 同性の目から見ても可愛らしい感じの研究員はディエンに何かを差し出した。
 それをディエンは受け取った。
 研究員は頭を何度も下げ、小走りに去っていた。
 シユイとすれ違う。
 長い茶髪と茶色の瞳を持ったナチュラルな外見をしていた。
 抱えていたバインダーを取り落としそうになった。
 ディエンが振り返る。
 真紅の瞳は驚きで、彩られているような気がした。
 ビックリしているみたいで、合っているのだろうか。
 人間の感情を上手く読み取れないシユイには、複雑な表情としか思えなかった。
「いつから、そこへ?」
 ディエンが尋ねる。
 声が震えていた。
 動揺しているのだろうか。
「さっきよ。
 これを渡すために探したんだから」
 シユイはバインダーをリーダーに押しつけた。
「それは悪かった。
 ありがとう」
 似合いすぎて気持ちの悪い真紅の瞳が微笑んだ。
 いつ見ても完璧だ。
「何、貰ったの?」
 シユイは純粋な興味から訊いた。
「ここじゃ話せない。
 私室に行こう」

   ◇◆◇◆◇

 必要最低限の物しかないような部屋もだいぶ私物が増えたようだった。
 シユイは樹脂造りの椅子に腰掛けた。
「それで何を貰ったの?」
 質問をくりかえす。
 ディエンはバインダーを机の上に置くと、封筒をシユイに手渡した。
「無粋なのも、君らしい」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
 シユイはそれを凝視する。
 紙で作られた封筒は、先ほど見た研究員の印象そのものだった。
 可愛らしいピンクの封筒はしっかりと閉じられている。
 まるでシユイを拒むように。
「もしかしてラブレター?」
 独り言のようにシユイは言った。
「たぶんね。
 中身を見ていないから、断言はできないけれど」
 ディエンは椅子を持ってきて、向かい合わせに座る。
「開けてもいいかしら?」
 シユイは好奇心から言った。
「どうぞ」
 ディエンは肩をすくめてみせる。
 真っ白な便箋に、丁寧な筆跡で恋心を綴った物が出てきた。
 とても可愛らしいものだった。
 自分には百歩譲っても書けないものだろう。
 こんなものを書くよりも、口に出したほうが早い。
「いわゆる恋文ってヤツね。
 初めて見たわ。
 ありがとう」
 シユイは便箋を折り目どおりに折る。
 元のように封筒にしまうと、ディエンに返した。
「感想はそれだけかい?」
 ディエンは壊れ物を扱うように、手紙を開く。
 真紅の瞳が便箋の文字を追う。
「恋愛小説には良く出ていたシチュエーションね。
 怒ればいいのかしら?」
 シユイは首をかしげる。
「ご自由に」
「自分の身に降りかかかるなんて、想像したことがなかったから、分からないわ。
 新鮮な感じがするの。
 胸がドキドキして、とってもワクワクしているわ」
 恋愛小説の女主人公たちは恋人の不実を嘆いたり、泣いたりしていた。
 けれどもシユイの心には、不思議とそんな感情は湧いてこなかった。
「シユイらしい」
 ディエンは封書を引き出しにしまう。
 そこには似たような封筒があった。
「モテるのね」
 今回が初めてではなかったようだ。
 日常的に貰っているようだった。
「シユイこそ貰わないの?」
 ディエンが切り返してきた。
「さっき、初めて見たって言ったでしょう?」
 初めて見たのが、他人の恋文だったというのは皮肉が利いていた。
「真珠では貰ったことは?」
 意外そうにディエンは言った。
「ないわ。
 第一、手紙という形式がないもの」
 シユイは指で癖の強い髪を巻きとりながら言った。
 ディエンは静かに引き出しを閉じた。
「手紙は嬉しい?」
 シユイは経験者に尋ねた。
 薔薇の研究院は無駄が多い。
 古風といえば聞こえはいいかもしれないが、時間がもったいないような気がした。
「あまり無碍にはできないな。
 メールですむ物をわざわざ時間をかけて書いてもらったものだからね。
 残念ながら、気持ちには応えられないけど」
「そうなの?」
「俺にはシユイという立派な恋人がいるじゃないか。
 恋人だと思っているのは、一方的かい?」
 ディエンはためいきをついた。
「そういえば、そうね。
 身持ちが固い恋人で嬉しいわ。
 でも、困ったわね」
 シユイは言った。
「私もラブレターを貰ってみたいけれど。
 ディエンがいるから、貰えないのね」
 貰ったら、どんな気分になるのだろう。
 恋愛小説の女主人公のように、胸が高鳴るのだろうか。
 メールや口頭とは違ったイメージなのだろうか。
「欲しいなら、書こうか?」
「恋人同士なのに?」
「ラブレターは告白以外でも書くものだよ。
 恋愛小説には出てこなかった?」
 ディエンは微苦笑を浮かべた。
「まだ読書量が少ないみたい」
 シユイはクルクルと巻き取った髪を解放する。
 金褐色の髪は元に戻る。
「指きりしましょう」
 浮き立つ心を抑えながら、シユイは言った。
 二人は小指を絡める。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
 声を合わせて、子どものように約束を交わす。
「ところで、針千本を用意するのはどっちなのかしら?」
 シユイは謎に思ったことを口にした。
「君が指きりを知っているのが意外だったな」
「イールンに聞いたのよ。
 そうやって約束をすると、果たせるって」
 シユイは笑った。
「なるほど」
「これで私もラブレターを貰えるのね!
 楽しみだわ」
「内容は期待しないでくれると助かるよ。
 なにせ、初めて書くからね」
 ディエンはそっと指を離した。
 温もりが遠ざかって、ほんの少し寂しかった。
 だが、それにも増して期待感が上回った。


 それから指折り数えて3日後。
 真っ白な封筒がシユイの元へと届けられた。
 生まれて初めて貰ったラブレターだった。
 几帳面な文字が、簡潔に恋心を綴っていた。
 会えない時間の寂しさを埋めるような内容だった。
 指きりの魔法は効き目があった。
 また宝物が一つ増える。
 嬉しい気持ちでいっぱいになる。
 シユイは微笑んだ。
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