17.遠い記憶の中で

 国語科準備室は穏やかな時間が流れていた。
 窓から差し込む明かりが蜜色で柔らかだった。
 少し明るい色の髪が日差しに溶けていきそうだった。
 彼女専用になってしまっている椅子に、今日も少女は腰かけていた。
「あー、死にたい」
 制服に身を包んだ少女が言った。
「ずいぶんカジュアルに言うんだな」
 俺は書棚から、去年の冬休みの課題を引き出している途中だった。
「このまま死ねたら楽なのに」
 少女はポツリと呟いた。
「死んだら、そこでおしまいだ。
 まだ人生の折り返し地点に来ていないのに、もったいないだろう」
 いったん課題のファイルを机の上に置く。
 大事な生徒だ。
 何か悩み事でもあるのだろうか。
 青春を通り過ぎた自分にも多少の経験はある。
 傍から見たらささやかな出来事も、深く傷つくことがある。
「別に、終わりでもいいよ。
 こんなつまらない人生」
 熱のこもらない淡々とした口調で少女は言う。
「つまらなくしているのは自分自身だぞ。
 一生懸命に生きている奴らを見習え」
 俺はつかつかと少女の前まで歩いていく。
 少女の視線は、窓の外に投げかけられているままだった。
「寿命を分けてあげられるなら、分けてあげたいぐらい。
 呼吸をするのもメンドクサイ」
 ためいきをつくように少女は言った。
「ずいぶんと無気力だな。
 一度でいいから、本気出して、生きてみろ。
 それが青春ってものだ」
 暖簾に腕押し。
 彼女には、言葉は届かないだろう。
 理解していても、悪あがきをしたくなる。
「もう老後でいいよ」
「そんなにつまらないのか?」
 少女の顔を覗きこむ。
 大人びた生徒ではあるが、顔立ちは歳相応だ。
「毎日、同じようなことのくりかえし」
「そうか?
 同じ日はやってこないぞ。
 こうして話しているが、明日は話さないかもしれない」
「本気?
 それは困る。
 これ以上、退屈になったら死んでいるのと同じだよ」
 ようやく少女と目が合った。
 白目と虹彩が淡くにじんだ目は独特だ。
「重症だな」
 俺はためいきをついた。
「そうなんですよ」
「こんなところでうだうだしていないで、若者同士で楽しめばいいだろう?」
 教師らしく提案をする。
「ノリについていけないから、こうして話しているんじゃん。
 みんな何が楽しいんだろう?
 羨ましいよ」
「夢中になれることはないのか?」
 クラスの中でも浮いているのだろう。
 少女はいつでも独りでいる。
「あったら良かったんだけどねー。
 生きるのに飽きたよ」
 疲れきったという表情をする。
 自殺希望者は、みんなこんな顔をするのだろうか。
「一度しかない人生だ。
 浪費してないで、何かに打ちこんだらどうだ?」
 心配になり言葉を重ねる。
「打ちこむ何かが見つからないから、こうしているんじゃん。
 このままずるずると生きていくのなら、すっぱりと死んでしまいたいよ。
 無駄に歳をとりたくないなぁ」
 瞼を半ば伏せ、少女は言った。
 青春期特有の死への憧れが漂っていた。
「死なれたら悲しむ人間が、ここに一人はいるということを覚えておいてくれよ」
「なぁに?
 私が死んだら悲しんでくれるの?」
「お葬式で大号泣してやるよ」
 俺は肩をすくめて見せる。
「本当?
 それを見られないのは損だね」
 少女は目を瞬かせる。
「そう思うなら、死にたいなんて軽々しく言わないでくれ。
 ただでさえ、ノミのような心臓が、さらに小さくなる」
 胸を右手で押さえつけ、俺は言った。
「へー。
 私も少しは役に立っているんだ」
「まあ、俺なんかじゃ力不足だろうけどな」
 どれだけ偉人の言葉を知っていても役には立てない。
 知識だけあっても、意味はない。
「そんなことない。
 全然ない!」
 少女は元気よく言った。
 そこにはもう死の面影はなかった。
「お、元気になったみたいだな。
 その調子で、めいっぱい人生を謳歌してくれ」
 俺は安堵した。
 扱いに困ることもあるが大切な生徒だ。
 無事に卒業していって欲しい。
「恋愛しよ!
 そうしたら、退屈な人生に彩りってものができるよ」
 少女は跳ねるように立ち上がった。
 反動で、椅子がガタンと倒れた。
「大人をからかうもんじゃない。
 惚れたはれたは、もうこりごりだ」
 最後に恋をしたのはいつだったか。
 青春時代は遠い記憶の中だ。
 大恋愛の末の大失恋。
 あれだけの熱量で、恋愛するのはもう不可能だろう。
「人助けだと思って。
 私に死なれたら、泣くほど辛いんでしょ?
 生きがいになってよ」
 少女は懸命に言い募る。
 まるで川に流れる一本の藁にすがりつくように。
「釣り合いってものが取れないだろう」
 いくら私立といっても、先生が生徒に手を出したと知られたらヤバイ。
 二人揃って、路頭に迷うことになるだろう。
「損はさせないから!
 今から、恋をしようよ。
 決めた!」
 少女の目がキラキラと輝く。
 死にたがりの少女は、どこかへ霧散してしまったようだ。
「本気か!?」
 ぎょっとして、俺は後ずさる。
「打ちこむものを見つけろって言ったのは先生のほうだよ。
 責任とって、私と恋に落ちてよ。
 じゃなきゃ遺書に書いてあげる」
 妙に行動力のある少女だ。
 本気で行動に移しそうで怖い。
「おいおい。
 物騒なことを言わないでくれ」
「付き合ってくれたら、死にたいって二度と言わない」
 少女はキッパリと言う。
「そういうの、何ていうか知っているか?」
「脅迫?」
「分かっててやっているんだったら、仕方がない。
 後悔しても知らないぞ」
 俺はためいきをついた。
 どうやら、白旗を揚げて降参するしかないようだ。
「大人の本気でメロメロにさせてちょうだい」
 少女は楽しそうに言う。
 未来のある若者を助けられただけラッキーなのだろうか。
 それとも、まんまと罠にはめられたのか。
「まったく、仕方がないヤツだ。
 約束だぞ」
「なにが?」
「死にたいって二度と言わない。
 っていう約束だ。
 老い先短い俺よりも、先立たれたら目覚めが悪いからな」
 俺は言った。
 教師と生徒の禁断の恋愛というのを始めるのだから、イニシアチブはとっておきたい。
「うん、約束する」
「また気軽に言うな」
「死にたい気分は、すっかり吹き飛んだから大丈夫。
 恋愛って一度でいいから、してみたかったんだ」
 嬉しそうに、少女は身をよじらせる。
 少し明るい色の髪が夕陽に揺れる。
「初恋もしたことがないのか?」
 俺は驚く。
「ないよ」
 少女はケロリと爆弾発現をする。
「そりゃあ、重大だな」
 想像したよりも、事は大事になりそうだった。
 軽い話し相手になっていればいいだけでは、ダメなようだ。
 本気で相手をしてやらなければならないようだった。
「これからは楽しくなりそう」
 少女は新しいおもちゃを手に入れた時のように、うっとりとした表情を浮かべる。
「それは何よりだ。
 退屈で死なないように、きっちりと見張っててやるからな」
 俺は真剣な顔つきをつくり言った。
「これからは、どうぞよろしくお願いします」
 少女はぺこりと頭を下げた。
 俺は、その頭を優しくなでた。
 少し明るい髪色の髪はとても柔らかかった。
 消えかかっていた遠い記憶の中の種火が、また燃え上がるのを感じた。
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