19.かみしめながら

 サイレント・ソングを奏でながらドアが自動的に開いた。
 部屋でくつろいでいた青年は二度、びっくりした。
 蝋燭の光の中では青に定まる瞳が部屋を一周見やる。
「やあ、イールン研究員。
 ヤナなら留守だよ」
 まるで部屋の主のようにディエンは言った。
 その言葉に少女はためいきをついた。
 『良き隣人』でもためいきがつけるらしい。
 驚きの発見だった。
「お茶を淹れよう」
 勝手知ったるなんとやら、青年は木製の椅子から立ち上がった。
「ご迷惑をおかけするわけにはいきません。
 失礼します」
「行き違いになってしまうかもよ。
 ここで待っていれば、必ず会えるんだ。
 それに俺も話し相手が欲しくてね」
 ディエンは棚から掌に収まる茶器を手に取る。
 ポットから黄金色をたたえた緑の茶を注ぐ。
 それをテーブルの上に乗せる。
 部屋の片隅に片付けられていた樹脂の椅子をテーブルの脇に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 少女は椅子に座るとためいき混じりに礼を告げた。
「どういたしまして」
 ディエンも自分用のお茶に一口飲む。
 機械が淹れるコーヒーと違い、爽やかな香りがする。
「時にイールン研究員。
 知っているかい?
 ためいきの数だけ幸せが逃げていく、と」
「私はためいきをついていましたか?」
 少女は小首をかしげる。
 長い黒髪がさらさらと肩から零れ落ちる。
「この部屋に入って、ヤナがいないと知って、ついていたよ」
 ディエンの指摘にイールンは半ば目を伏せる。
「だからでしょうか。
 ヤナが逃げているのは」
「イールン研究員にとって幸せはヤナかい?」
「最近、避けられているような気がするんです。
 理由はわかりません」
 少女は茶器を包みこむように持つ。
 歌うように偏光する瞳もただ青い。
「君がヤナを好きなように。
 ヤナも君を好きなように見えるけど?」
 ディエンは客観的な意見を述べた。
「私は作られた存在です。
 それがヤナにとって重荷になっているのかもしれません。
 私とヤナは出会うべきだったのでしょうか?」
 イールンは顔を上げた。
 『良き隣人』にも自覚があるのだ。
 それはとても人間らしい感情だった。
「上がマッチングしたんだ。
 出会いは必然だったと思うよ。
 確かに二人が乗り越えなければならない壁は高いかもしれないけれど、そこに愛があれば乗り越えられるさ」
「愛ですか?」
 少女は目を瞬かせる。
「ヤナとイールン研究員なら、必ず乗り越えられると信じている。
 まあ、そんな奇跡的な瞬間を見てみたい気がするんだよ」
 ディエンは茶器の淵をなぞる。
 懐古主義で地上出身の純血種の青年と人工生命体の少女。
 宇宙で一番、かけ離れた存在だ。
「他人のことなのに、優しいですね」
 イールンは言った。
「他人事とは思えなくてね。
 イールン研究員はシユイの出自を知っているかい?」
「いいえ」
「デザイナーベビーなんだよ」
 ディエンは声を落として言った。
「それの何が問題なのですか?」
 イールンは不思議そうに言う。
「そのセリフをそっくり返してあげるよ。
 つまりは、そういうことだ」
 青年はお茶をすする。
「俺と違ってヤナは誠実だから、きっと近いうちに答えをくれると思うよ。
 今はゆっくりと答え合わせの時間まで待っていればいい」
「私が性急すぎなのでしょうか?」
「考える時間も大切だってことだよ」
「アドバイス、ありがとうございます。
 少し落ち着きました」
「力になれたなら、これ以上ないくらい嬉しいよ」
 青年の言葉に少女は微笑んだ。
 今日はよくよく貴重なものを見る日だ、とディエンは思った。
 重低音を響かせてドアが開いた。
「イールン。それにディエン先輩」
 部屋の主は目を見開く。
「幸せが帰ってきたようだから、俺は失礼するよ」
 ディエンは立ち上がる。
 木製の椅子がキーッと音をたてた。
「幸せ?」
 ヤナは途惑いを浮かべながら尋ねた。
「世間話だよ。
 馬に蹴られる前に退散させてもらうよ。
 どうぞ、ごゆっくり」
 ディエンは空になった茶器をテーブルの端に置く。
 ドアの外は人口光で溢れていた。
 愛があれば乗り越えられる。
 たとえ、それが前代未聞でも。
 幸せの意味をかみしめながら青年は廊下を歩く。
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