20.君の存在

 予備校の学習机は埋まっていたので、空き教室をこっそりと借りることにした。
 ケースケの判断は間違っていなかったはずだ。
 チルハというイレギュラーな幼なじみがいなければ。
 遊ぶところのない中途半端な田舎では、予備校も溜まり場に近い。
 現に勉強する必要のないチルハが出入りしている。 
「ねぇ、幸せってどこにあると思う?」
 目をキラキラさせてるんだろうな、って声でチルハは言った。
 ケースケは世界史の問題集から意地でも顔を上げないで
「チルハがいないとこじゃね?」
 言った。
 赤い下敷きを使って重要語句を覚えていく。
 なかなかな頭に文字が入らないと焦っていると、赤い下敷きはケースケの手を離れた。
 哀れ赤い下敷き、チルハ女王陛下の団扇にされてしまった。
「どういう意味」
 いつもの3割り増しに不機嫌な顔をしていた。
 それでも得な幼なじみは“かわいい”と思わせる。
 襟のついた長袖の白いブラウスに赤系のプリーツスカート、紺色のハイソックス。
 まるで制服みたいな私服だけれども、これがチルハだった。
「『あなたになお遠く』っていうぐらいだし、チルハ様には遠い場所なんじゃないかって思っただけだよ?」
 ケースケは「下敷きを返せ」とジェスチャーする。
 ふふんとチルハは上機嫌に鼻で笑う。
「カール・ブッセの『あなた』は『you』じゃないんですけど」
 チルハは言った。
 ケースケでも暗誦できるのは、チルハの母親が上田敏の訳が好きだったからだ。
 小さい頃から秋口になると、家事をしながらこの詩を呟いていた。
 幼なじみで一緒に遊んだせいもあって、ケースケも自然に覚えてしまった。
「知ってるよ。
 でも、あなたがyouでも合うと思わないかって、思わないですね、はい」
 ケースケはためいきをついた。
 賛同を得られない物事ほど、悲しいことはない。
「幸せっていうものを、これ以上ないってくらい堪能してみたいのよ」
 楽しそうに少女は言った。
 チルハが探す幸せは見つからないんだろうな、とケースケは思う。
 形がなく、実態を持たないものを探せるわけがないのだから。
「飽きるよ、絶対」
 本物じゃないから、幸せに飽きてしまうだろう。
 あっけなく失われてしまうだろう。
 本物の幸せは簡単に見つかるはずがない。
 偽物でだいたいの人は、満足しているのだ。
「どうして飽きるなんて思うの?」
 チルハ腰に手を当て、ケースケを指さす。
「さては、ケースケ。
 あなた幸せなんでしょ!?
 このチルハ様を差し置いて、幸せになるなんて卑怯者」
 小さな子どものようにチルハ言った。
「別に幸せじゃないよ。不幸せじゃなかっただけで」
 下敷きを返せと二度目のジェスチャーをする。
 今度は簡単に帰ってきた。
 世界史の問題集に手早くしまう。チルハの気が変わってしまったら、大変だからだ。
「完了形?」
 チルハは小首をかしげる。
 それがあまりにも、小さな子どもがするような仕草で、ケースケの口元も緩くなる。
 チルハは小さく上品に作られていて、可愛らしい人形のような存在なのだ。
「過去形。チルハが来たから」
「そのチルハってヤツは酷いね。
 ケースケかわいそう」
 チルハは本気で言った。
「探しに行きますか」
 世界史の問題集をカバンに仕舞うと、ケースケは立ち上がった。
 目線の高さが逆転する。
「え」
 頭一つ分小さいチルハは、目をきょとんとさせていた。
「幸せ」
 ケースケは言った。
 問題集の分だけ重くなったカバンを肩にかける。
 ずっしり、と重かった。
 これは不幸せな重さと取るか、幸せに続く道への重さと取るか。
 それが問題だった。
「そうこなくっちゃね!」
 チルハ印の笑顔が満開。
「ケースケは話がわかるよ。
 他の人とは違うね!」
 それこそ幸せな笑顔で言う。
 ここに「幸せ」があるんじゃないか。こっそりと胸の中で思った。
 この笑顔を守っていくことになるんじゃないだろうか、とケースケは思う。
 明日までとか、三ヵ月後までとかじゃなくって。
 チルハにケースケが必要なくなる日まで、続くのだろう。
 守ってやるというのは大げさかもしれないけれど、出来るだけのことはしたい。
 チルハがチルハという存在である限り、ケースケは素直に従うのは決まり事みたいなものだった。
 それを不幸せに思わないのだから、完了形でいいのかもしれない。
「早く早く〜」
 チルハ教室のドアのところで呼ぶ。
 遠足に行く子どもみたいで、楽しそうだった。
「わかったよー」
 ケースケはチルハに向かって歩き出した。
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