23.羊でも数えてみよう

 共同計画第二期も、そろそろ中盤だろうか。
 所属する研究員たちはおおむね陽気で勤勉であった。
 薔薇の研究院のトップであり、プロジェクトのリーダーでもある青年は早めの解散を命じた。
 プロジェクトは順調に進んでおり、根を詰めて作業するまでもないと判断したからだ。
 休息は必要だ。
 みな他愛のないことを話しながら散っていった。
 その背を見送りながら、ディエンは居残った。
 リーダーからの責任感ではない。
 区切りの良いところまでやっておこうか、という単純な理由だった。
 ディエンが樹脂デスクに向かって、端末機を叩き続けていた。
 ふいに髪を引っ張られた。
 そんな突拍子もないことをやってのける人物は限られてくる。
 しかも、残業中。
「伸びたわね」
 高くもなく、低くもない、音楽的な声の持ち主は言った。
 ディエンは微苦笑して、いくつかのキーをタッチする。
 データーは保存され、ホログラフィーは霧散した。
「サラサラとしているわ」
 どこか楽し気な声で言う。
「そろそろ縛るか、切るしかしないとねー」
 ディエンは顔だけ向けると、視線の先には同じプロジェクトの同僚であり、幼なじみであり、恋人であるところのシユイが立っていた。
 ディエンの方が身長が二十センチ程高いから、見上げるというのは珍しい。
「切っちゃうの?
 こんなに気持ち悪いのに」
 ヘーゼルの瞳が瞬かせる。
 上等な陶磁器のような指先が髪を放し、慣れた手つきでディエンの色眼鏡を取り上げる。
 まるで宝物を手に入れたように、シユイは色眼鏡を大切に扱う。
 血管が透き通った深紅の瞳は、やはり幼なじみにとっては気持ち悪いものなのだろうな、とディエンは思った。
 他人とは大幅に感性がズレている持ち主だ。
 研究以外のこととなると常識が当てはまらなくなる。
 真珠の研究院から薔薇の研究院に転向した時から、シユイの言動に悪気がないのは理解している。
 子どものように純真で、無邪気なのだ。
 十年以上前から変わっていない。
「そういうシユイは伸ばさないんだな」
 ディエンは樹脂づくりの椅子の背もたれに背を預け、笑みを深くする。
 肩にかからない程度の金褐色の巻き毛は、淡い照明に彩られていてキラキラと輝いていた。
「邪魔になるものの」
 シユイは断言した。
「なのに他人は強要するんだな」
「ダメかしら?」
 シユイは小首をかしげる。
 その拍子で豊かな金褐色の巻き毛が揺れる。
 象牙のような白い肌との対比が美しい。
 まるで恰幅の絵画のように。
「降参だ。
 俺の女神さま」
 ディエンは肩をすくめる。
 それに合わせて伸びすぎた黒髪が肩を覆う。
「懐かしいわね」
 シユイは呟く。
「ん?」
「再会したあなたは髪を伸ばしていた」
「あまり外見に無頓着だったからね」
 ディエンは軽い調子で言った。
 伸ばしていたんじゃない。
 髪を切らなかっただけだ。
 最初は目の色と同色と決められている深紅の耳飾りさえ隠れればよかった。
 定期的に切りに行くのが面倒になり、切らなかった。
 切る度に深紅の耳飾りが鏡に映ったからだ。
 嫌でも事実を突きつけられる。
 気がつけば腰を超える長さになった。
「せっかくこんなに気持ち悪いのに。
 ナチュラルにしかない色合いだわ。
 完璧ね」
 シユイは微笑む。
 豊穣の女神のように均整の取れた体つきと美しい容貌の持ち主が微笑を浮かべると、眩いぐらいの神聖さがあった。
「もう、懐かしいと言われるぐらいの時間が経ったのだと思うと、ゾッとする」
 ディエンは言った。
「そうなの?
 あなたでも怖いものがあるのね」
 シユイは不思議そうに言った。
 一体、どう思っているのだろうか。
 高等生命体の研究の許可を得たとはいえ、良き隣人ではあるまいし、ごく普通の研究員だ。
 今はトップだが、来年はどうなっているかはわからない。
「たくさんあるさ。弱虫だからね」
 ディエンは苦笑する。
「髪を伸ばすのは願掛けだと聞いたけど、何を願ったの?
 確か、私が転向すると決めたら切ったわよね」
「また新しい教本かい?
 偏りを感じるよ」
 女主人公の恋愛小説を読み漁る恋人を想像ができてディエンは笑う。
「あら? 違ったの?」
「普通は女性が伸ばすものだ」
「そういえばそうね」
 シユイは困惑する。
 明晰すぎる頭脳は、情報不足を指摘されて、スケジュールの立て直しを計算しているのだろう。
「まあ、当たらずも遠からずかな」
 そういうことにしておこうとディエンは思った。
「じゃあ、私との再会?」
 シユイは嬉しそうに笑う。
「まあ、そういうところだよ。
 伸ばすなら、どんな願を掛けよう」
 ディエンは言った。
 かつてのように下ろしっぱなしにするわけにはいかないだろう。
 襟元で縛らなければならないだろう。
 出自を誇示するような深紅の耳飾りを毎日、確認する日々が戻ってくる。
 共同計画第二期のプロジェクトのリーダーには、それなりの品性が問われる。
 少なくとも外面は良く、整えなければならない。
 色眼鏡を許されているのも、暫定的とはいえ薔薇の研究院のトップだからという温情だ。
「二人が末永く暮らせるように」
 シユイは夢見るような声で言った。
 新しい教本だろうか。
 それとも『シンパシー』持ちの一つ下の後輩の影響だろうか。
 目の前の乙女が自分から弾き出したデーターだとは思えなかった。
「贅沢な願掛けだな」
 ディエンはシユイの癖の強い髪を一房、絡めとるとキスをした。
「そんな私は嫌い?」
「嫌われるなんて思っていないくせに」
 ディエンは髪を持ち主に解放してやる。
「だって、あなたの瞳に書いてあるわ」
「なんて書いてあるんだい?」
 興味を持ってディエンは尋ねる。
「私のことを好き、って。
 どうして気がつかなかったのかしら?
 出会った時から書いてあったのに」
 シユイは不満そうに言った。
「君が鈍感だからだろう」
 ディエンはためいきを零した。
 今に始まったことじゃない。
 今更な事実だ。
「私もあなたのことが好きよ」
 シユイは言った。
 そこには確かに愛がこもっていたが、恋情というものには程遠かった。
 焦がれる、ということを知らないのだろう。
「知ってるよ」
 ディエンは微笑んだ。
「あなたも自信家ね」
 納得がいかないと言外に漂わさせていた。
「虚勢ぐらい張らしてくれてもいいと思うんだけど。
 格好がつかないだろう?」
「あら、あなたはどんな時でも、かっこいいと思うわよ。
 常識を持ち合わせているし、専門以外の分野も博識だし、道徳性も高いし、人の機微を察するのも上手だし、社交性も高いと思う。
 こんなに私にも常に優しいし。
 異性の目から見ても充分、魅力的な外見……なのでしょう?
 完全調和がとれていて、気持ちが悪いほど完璧ね」
「褒めてくれてありがとう」
 ディエンは苦笑する。
「偶然が生んだ美しさだわ」
 ヘーゼルの瞳はうっとりと告げる。
「ヤナ研究員よりも?」
 ディエンは意地悪く問う。
 『純血主義』が謡い騒ぐ後輩の名を挙げる。
 太古の黄金惑星。人類の天国にして、墓場。
 その惑星の血を一度も絶やすことなく、交配し続けた奇跡。
「比べたりできないわ。
 あなたはあなたじゃない」
 シユイは断言した。
 それが殺し文句だということに気がついていないのだろう。
 ヘーゼルの瞳は、星を見つめるように真っ直ぐで綺麗だった。
 現状維持でもかまわないか。
 そう思うほどにディエンの心は囚われている。
 出会う前からの恋だ。
 人生のお供にしてきた恋心だ。
 羊でも数える気分で、その成就の瞬間まで待つのは苦痛ではない。
 薔薇の研究院を去る時は、あの保守的で懐かしい故郷の船に戻るのだろうか。
 あと十年以上、先のことだろうけれども悪くはない。
 きっと刺激的で飽きないだろう。
 物語にあるような情熱的な恋愛も良いが、二人にはゆっくりと深まっていく関係が居心地が良いだろう。
 ディエンは未来を描いて微笑んだ。
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