29.そこで静かに待つ

 ローザンブルグ地方、マイルーク領、マイルーク城。
 王都よりも北に位置するローザンブルグ地方は、秋もすっかり深まり、もう少ししたら長い冬が到来する。
 そんな季節だった。
 一つの大騒動が起き、これから先も起きそうな予感がする。
 そんな時分であった。
 ペルシ・サルファー・ローザンブルグは図書室へ向かう道すがら、声をかけられた。
 相手は婚約者であるガルヴィ嬢ではなかった。
 慎ましやかで古典的な若葉色のドレスに身にまとうセルフィーユ・アウイン・ハーティン第一王女。
 白薔薇姫、その人だった。
 ドレスを見立てたのは従弟殿だろうか。
 聖徴を隠すように流されたままの金の髪、美しいサファイア色の瞳、透明感のある白い肌によく似合う。
「あの、実は……その。
 お聞きしたいことが」
 数冊の本を抱えながら白薔薇姫は言った。
「もちろん。
 私が知っている限りのことならいくらでも。
 ですが、廊下で話すのは問題です。
 図書室へ行きましょう。
 ちょうど本を探しに行こうと思っていたところでしたからね」
 ペルシはにこやかな笑顔を浮かべて提案した。
「ありがとうございます」
 白薔薇姫はホッとしたように、微かに笑みを見せた。
 頼りげなく風に吹かれる、棘のない一重の白薔薇のような可憐な風情だった。
 きっと従弟殿であるレフォール・ジェイド・ローザンブルグ関係だろう。
 と、ペルシは辺りをつけた。
 異性と二人きりになるのは貴婦人の名誉に関わることであったが、図書室ならばかまわないだろう。
 ペルシが本が好きなのは知れ渡っているし、白薔薇姫が勉強家なのも知られている。
 城主である従弟殿は、おそらく書斎でマイルーク子爵としての執務を行っているはずだ。
 他者に立ち聞きされる心配はない。
 秘密話にはもってこいだ。
 礼拝堂並みに清潔感がある図書室の真ん中に置かれている閲覧用のテーブルに、二人は向かい合うように座った。
 白薔薇姫は抱えていた本をテーブルの上にきちんと載せる。
 ペルシの青鈍色の瞳は素早く本のタイトルを確認する。
 ローザンブルグ家の、しかも王国創世記時代に成立した本の写本だ。
 大神殿で15年間も暮らしてきた白薔薇姫なら、すらすらと読めたことだろう。
「お話とは?」
 ペルシから微笑みながら、切り出した。
「あの、その。
 聖徴の位置を訊くのは失礼にあたるのでしょうか?」
 白薔薇姫は途惑いながら尋ねる。
 質問はペルシの予想通りだった。
 あれだけの大騒動だったのだ。
 興味を持たない方が不思議だろう。
「ローザンブルグ娘に訊かれたら、否と言える男はいないでしょうね。
 ただし、訊くだけですみますか?」
 ペルシは微笑みを崩さずに質問する。
 サファイア色の瞳はためらったように、本を見つめる。
「実際に聖徴を見たい、ふれたい、あるいは自分の聖徴と重ね合わせたい。
 そんなことを思いませんか?」
 ペルシはできるだけ穏やかに言う。
 白薔薇姫の頬が朱に染まる。
「恋する人のことを少しでも多く知りたい。
 そう感じるのは当たり前の欲求です。
 ローザンブルグ娘なら、それが強く出るでしょう。
 耐えがたい誘惑、らしいですよ」
 ペルシは本で知りえた事実を伝える。
「……そうなのですか」
 白薔薇姫は安堵したかのように緩く息を吐きだした。
「ですが、それをレフォール殿に頼むことは、酷な欲求だと忠告しましょう」
 ペルシははっきりと断言した。
 サファイア色の瞳が弾かれたように青年を見る。
「白薔薇姫。
 性欲、という言葉をお知りですか?
 貴女が今、感じていることの一つです。
 当然、レフォール殿も感じるでしょう。
 しかも男性であれば女性よりも強く感じます。
 貴女はすでに成人しており、なおかつ実質的に足入れ婚でした。
 つまり式を挙げる前に男女関係を結んだところで、誰にも咎められない。
 俗世のことに疎い貴女に、レフォール殿は実に紳士的に振る舞っています。
 さすが騎士中の騎士と呼ばれる銀の騎士を賜るわけですね。
 ですが、聖徴にふれたいと伝えたら、貴女の望むような関係ではいられなくなります」
 ペルシは微笑みを浮かべたまま、強く諭す。
 おぼろげながら結婚というものを本を通して知っているのだろう。
 白薔薇姫はうつむいた。
 羞恥心で耳まで真っ赤になっている。
 この調子だとくちづけ一つ、したことがないのだろう。
 せいぜい手をつないだぐらいだろうか。
 ペルシは従弟殿の忍耐強さにしみじみと感動する。
 愛する女性がごく傍にいながら、高い知性、品性でもって自制しているのだろう。
「……申し訳ありません」
 白薔薇姫はうつむいたまま、か細い声で謝罪する。
「いえ、謝らなくても大丈夫です。
 このローザンブルグではローザンブルグ娘の意思が最優先されますから。
 茨姫がそうであるようにね。
 それに我がレインドルク家伯爵家の意義は、ローザンブルグ公爵家の補佐です。
 何といっても、レフォール殿は現マイルーク子爵です。……次期公爵です。
 白薔薇姫の足りない知識を補うのも、役目の一環です」
 ペルシはできるだけ優しく言葉を紡ぐ。
「……このような、お恥ずかしいことを」
 うつむいたまま一生懸命に話す白薔薇姫は年頃の娘らしい初々しい反応だった。
 ここに従弟殿がいなくて良かった。とペルシは思う。
 理性が保てなくなっていただろう。
「春になれば式を挙げるのですから、それまではゆっくりと想い出を増やしていけばいいのです。
 婚約者時代を存分にお楽しみください」
 ペルシは明るい口調で言った。
 白薔薇姫は華奢な体をさらに小さくする。
 新しく知った知識で大混乱を起こしているのだろう。
 清らかすぎる。
 だからこそ、従弟殿は踏みとどまっていられるのだろう。
 ふいに重なって見えたのは、自分の婚約者であるガルヴィ嬢だった。
 信仰という炎の前で立つガラス。
 透明感のある清らかな美しさ。
 ペルシもまたそれに囚われているのだった。
 『エレノアールの大聖堂』と呼ばれるローザンブルグ一族らしい恋だ。
 信仰の前では己の欲など、理性でもってたやすく蓋をかけられる。
「ご用件がおすみなら、私は本を借りに行ってまいります。
 いくらなんでもレフォール殿の婚約者を独り占めしたと知られたら、大問題ですからね。
 マイルーク城で噂話が広がるような心配はあるとは思えませんが念のためです。
 しばらくは、こちらでお一人で心の整理をするとよろしいでしょう」
 ペルシは椅子から立ち上がった。
 比較的新しい本が並ぶ本棚に向かっていった。
 勤勉家な従弟殿のことだ。
 ペルシがまだ写本したことがない異国の本たちが眠っているだろう。
「……ありがとうございます」
 追いかけるように白薔薇姫がペルシの背に声をかけてきた。
「これぐらいならお安い御用です。
 お気になさらずに」
 ペルシは振り返り青鈍色の瞳を和ませた。
 それから再びレインドルク伯爵公子は本棚へと歩を進めた。
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