30.鳴り止まない鼓動

 気持ちの良い風が吹く季節。
 乾いた暑さが、心を和ませる。
 ガラス戸を開け放した縁側で詩集を読んでいた少年は、顔を上げた。
 楽しげな足音が、屋敷を囲む竹林とリエゾンしている。
 パチリッと爆ぜる火の粉のように、菫外線のように、それは明るい。
 艶々とした深緑の葉を持つ佐保姫の垣根から、小柄な少女が姿を見せた。
 メレンゲのように白いブラウスに、デニムのスカート。
 細い足には、薔薇輝石から切り出したような華奢なサンダル。
 新しい靴はお気に入りで、毎日のように履いている。
 少しばかり「お姉さん」になった、ところがポイントだと口にしていた。
 ただ、長時間歩くのが難しいのか。
 それともお気に入りだからなのか。
 少女がそれを履いて、山上の外へ行くことはない。
「宗ちゃん」
 お隣さんで幼なじみで従妹の少女は、ニッコリと笑った。
 宗一郎は読み止しの詩集に、しおり代わりのリボンを置いた。
 時間が堆積したリボンは、燈子が言うには『赤薔薇の精霊がまとう衣のすそ』色。
 詩集を閉じて、脇によけておく。
「あのね」
 小さな燈子の手が縁側に置かれる。
 ピタッと張りつくように。
「宗ちゃん、幸せってどんな色?
 薔薇の色って言うでしょ。
 どんな色?」
 燈子が尋ねる。
 高く澄んだ夜空に輝く銀の星のように輝く声で。
 ハンドベルのような声こそが幸福の象徴のように、宗一郎には思える。
「薔薇って、たくさんの色があるでしょ?
 どの薔薇の色が、幸せの色なの?」
 幼子のように屈託のない笑顔。
 新しいことを知れる喜びで、万華鏡のようにきらきらと輝いていた。
 宗一郎は目を細め、従妹の小さな頭を撫でてやる。
 薔薇にはたくさんの色がある。
 白、赤、ピンク、黄色、紫。
 その中で一つだけ、幸せと選ぶのなら
「燈子と同じ色だろう」
 少年は迷わずに言った。
「とーこの色?」
 長い睫毛に縁取られた大きな瞳が、宗一郎を見上げる。
 無心に、と思うほど、純粋に見つめる。
「空のクレヨンの2番目だ」
 宗一郎は従妹がお気に入りの言い回しで表現する。
 虹の七色。上から二番目。
「赤橙黄緑青藍紫 とーこ色」
 太陽の光で煮とかした硝子のような透明な声が口ずさむ。
 風が揺らしていく竹の葉とトライアド。明るい三和音。
「じゃあ、とーこは幸せ色なんだね」
 夜空のように黒い瞳が宗一郎に訊く。
「燈子は……幸せじゃないのか?」
 少年の胸は打たれて、手を引っこめた。
 幼なじみの少女があまりに透明な輝きを宿していたから、胸の鐘は早くなっていく。
 燈子は神の炎を持って生まれてきたような少女だった。
 それを奇跡と呼ぶ者もいたし、恩寵と呼ぶ者もいた。
 だからこそ、宗一郎は恐ろしかった。
 灯火のように、パッとかき消えるのではないか。
 夜空を飾る恒星のように、気づかないうちに終焉を迎えるのではないのか。
 あるいは「雲になりたい」という口癖のように、本当に……雲になってしまうのかもしれない。
 小さな燈子の頭が、ゆるく横に振られる。
「とーこは幸せじゃないよ」
 白い顔にゆっくりと笑顔が広がる。
 顔のパーツすべてを使うように、笑った。
 世界中でもっとも眩しい季節の今よりも、その笑顔は輝いていた。
「幸せじゃなくって、幸福だよ。
 これ以上ないくらいの満足なの。
 宗ちゃんと一緒だから」
 燈子は嬉しそうに言った。
 それは『幸福』そうにと言い換えても良いぐらいに。
 この上もなく満足な笑顔で声だった。
「そうか」
 宗一郎は口を引き結んで、うつむいた。
 先ほどまでとは違う雰囲気で、鼓動が早い。
 顔が熱い。
「宗ちゃんは幸せ?」
 無邪気な問いかけ。
「もし、幸せじゃないなら、幸せ色の薔薇をあげようと思ったの」
 小さな白い手が、宗一郎の手に重なる。
 自分の手よりも少し高い体温。
 ドキッとしたが、不快ではなかった。
「幸福だ」
 宗一郎は白状した。
 広い世界を探しても、これ以上の満足があるとは思えない。
 酔う、と少年は感じた。
「おんなじだね。
 とーこ、嬉しい」
 素直に少女は言った。
 高すぎることなく、大きすぎることなく。
 それはストンと心に落ちる。
 当分の間、鼓動が鳴り止みそうにないことだけ。少年は理解した。
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