15.銀の空



 今夜は残念ながら雨降りだった。
 夜の7時が過ぎ。
 オレンジ色のカサが、夜目にも鮮やかに庭に入ってくる。
 明かりになるようなものが一つない陰鬱な色彩の庭が、パッと明るくなる。
 そう思うのは、宗一郎だけではあるまい。
 庭に出来た水たまりを気にせずに、少女は走ってくる。
 宗一郎は静かにガラス戸を開けた。
 雨の匂いがした。
 いつもは気にとめない土ぼこりが舞っているためだ。
「宗ちゃん!」
 雨の日でも、燈子は元気だ。
 軒の下で、オレンジ色のカサをたたむ。
 ぴょこんと縁側に少女は座る。
「上がるか?」
 宗一郎は尋ねた。
 燈子は首を横に振る。
 黒く長い髪が揺れて、雫を弾く。
 少年は眩しそうに目を細めて、少女の隣に座る。
「濡れているな」
 宗一郎はためらいがちに手を伸ばして、燈子の髪を梳く。
 これから社交界に遊びに出かける貴婦人のように、細い髪に銀のビーズが飾りのように乗っていた。
 指先にふれた雨の雫が冷たかった。
 気持ち良さそうに燈子は瞳を伏せた。
「宗ちゃんは、あったかいね」
 宗一郎の手に、少女の小さな手が重なる。
 いつもはほんのりと温かいそれは、雨で冷え切っていた。
「燈子が冷えているだけだろう」
 落ち着かない鼓動を悟られないように、宗一郎は慎重に言った。
「こうしたら、平気」
 燈子は宗一郎に抱きついた。
 もとより小柄な少女だ。
 すっぽりと宗一郎の腕の中に納まる。
「燈子?」
 突拍子もない行動に、少年はたじろぐ。
 どうしての良いのかわからずに、その場で硬直してしまう。
 少女は答えない。
 宗一郎の腕の中こそが、安全な場所と言わんばかりに離れない。
 少年からは、少女の顔は見えない。
 どんな気持ちをしているのか、判断になるような一つもなかった。
 二人の沈黙を雨が優しく包み込む。
 細い雨が風に流されているのが、ぼんやりと見える。
 水たまりの表面はせわしなく、波紋が広がっては消え、重なる。
 やがて、ぎこちなく宗一郎は小さな背に手を添えた。


「宗ちゃん。
 ずっと、一緒にいたいの」
 まるで泣いているようなささやき。
「俺も、そう思う」
 偽りのない気持ちだったから、宗一郎は気負いなく言った。
 この世界で最も明るい星を閉じ込めた瞳が、ようやく少年を見た。
 細く長い睫毛に縁取られた双眸は、真っ直ぐに宗一郎を見つめる。
「怖いの。
 明日がとても、怖い。
 宗ちゃんが……とーこの傍にいてくれないかもって、思うと」
 カタカタと震える小さな手が、宗一郎のシャツを握る。
「ずっと、一緒にいよう」
 宗一郎は燈子の華奢な体を、そっと抱きしめる。
「とーこ、迷惑じゃない?
 宗ちゃんの邪魔してない?」
 目の縁に、雫が宿る。
「そんなことを思ったことは一度もない」
 宗一郎は断言した。
「とーこを置いていかないで。
 どっかに行くときは、とーこも連れていって」
 涙に濡れた懇願だった。
 ポロポロと大きな瞳から、涙が零れる。
「燈子の傍にずっといる。
 そんなに心配しなくても、大丈夫だ」
 不器用な手つきで少女の背をなでる。
 細雨のように、静かに燈子は泣く。
 その身の内の不安がいかほどのものかは、宗一郎には計り知れない。
 小さな燈子は、喜びを人よりも大きく感じる代わりに、悲しみもまた大きく感じるのだ。
 鈍い宗一郎には、どれほど辛いか……わからない。
 できることは、燈子が泣き止むまで傍にいることぐらいだ。


 雨が止むように、涙が枯れる。
 燈子は泣き始めた時と同じように、静かに泣き止んだ。
 空が銀色の雲をたたえるように、燈子の表情も曇り空だった。
 何かを言いたそうに、宗一郎を見つめる。
 けれども、言葉は紡がれない。
 このところ、燈子はこんな調子だった。
「燈子。
 どうすれば、燈子の気持ちを軽くしてやれる?
 俺にできることはないのか?」
 宗一郎は腕の中の恋人に問うた。
 恋人と呼び合うほど甘い関係ではないとしても、恋い慕う人であることには変わりがない。
「ずっと、傍にいて」
 控えめな願いがつぶやかれた。
「もちろんだ」
 生真面目な少年はうなずいた。
「ずっとだよ。
 どっちかが、死ぬまでだよ」
 すがりつくように大きな瞳が見つめる。
「俺が先に死んだら、風になって燈子の傍にいる。
 燈子が先に死んだら、燈子がどの雲になったのか探しに行こう」
 真剣に少年は言った。
 その言葉に燈子は笑顔を浮かべた。
「約束だよ」
 燈子は細い小指を突きつける。
 宗一郎は微笑んで、その小指を自分のそれと絡める。
「ああ、約束だ」
 二人は指切りをした。


 小さな約束を結ぶ。
 神様の前で大きな約束をする前に、二人だけで約束をした。
 曇り空が、いつか晴れるように。
 悲しみの後には、喜びがあるように。
 それは前ぶれ。
前へ > 「宗一郎と燈子の45日間の空」