エア
それは生きてきたことの証明


 日々はくりかえし、量産されていく。
 同じ顔ぶれの中、息継ぎの仕方を忘れかけながら、連続した時間を生活している。
 流れ行く雑踏に、知り合いの顔を捜しながら、コンビニで買った紙パックのジュースを飲んでいた。
 細いストローの中を、オレンジ色の液体が重力に逆らい流れていく。
 冴えない印象の男が昼すぎの太陽にげんなりしながらそこにいた。
 生きているのに飽いた表情が、その男の年齢を曖昧にしていた。
 十代にも見えるし、四十代にも見える。
 どこにでもいそうな、特徴に乏しい男。
 最近の若者という括りにまとめられてしまいそうな男は、やはり周囲に埋没しながらジュースを飲み終えた。
 紙パックを振ると、カタカタとストローが音を立てる。
 慣れた手つきで、紙パックをたたむ。
 果汁100%という表示と瑞々しいオレンジの絵が正面になるように折ると、男は立ち上がって、コンビニに設置してあるゴミ箱に捨てる。
 それから、男はまた元の場所に戻った。
 擦り切れそうなスニーカーの底を見つめながら、男は時を浪費していた。
 道行く人々は男を気にするはずもなく、通り過ぎる。
 自分の目的に忙しすぎる人たちにとって、男は風景にしか過ぎない。
 職にあぶれた、落ちぶれた人間はどこにでもいて、それらは時間を浪費することに熱心であった。
 男もそれらの蒙昧な人種に思えた。
 その瞳が雄弁に語っている。
 精彩に欠く黒い瞳は、全ての事象について無頓着で、醒めているようであった。
 男はスニーカーの底を見るのに飽きて、また雑踏に目を転じた。
 酷く奇妙な笑顔を男は浮かべた。
 閉じられたままであった口が、開く。
 闇のように陰る口が、白い光にあふれた道に声を投げかけた。
「エア」
 男はそう発音したようであった。
 その声は小さすぎ、不明瞭であった。
 その単語を聞き取れた者が、如何ほどいたであろうか?
 当然のこと、雑踏の主だった人々は通り過ぎた。
 偶然にも、その声を聞いた者も、多くは無視した。
 だが、どんなことにも例外はある。
 男のその声に反応した者がいた。
 その人物は立ち止まり、雑踏から切り離されて、男の元にやってくる。
 若い娘だ。
 真っ白なその面に、親しげな笑顔を浮かべて駆けてくる。
 まるで長いこと会っていなかった友人に会うように、あるいは恋人に再会するかのように。
 男は底なし沼のような黒々した瞳に少しは喜びを乗せる。
「ずっと、ここにいたの?」
 若い娘は尋ねた。
 美しい外見どおり、美しい声であった。
 その声には、喜びがにじんでおり、さらに華やかさに磨きをかけていた。
「ああ」
 男は短く答える。
「ここにいるってわかっていたら。
 早く迎えにこれたのに」
 若い娘は拗ねたように言った。
 男は、困ったように若い娘を見た。
 こうしてみると、男が大層若いことに気がつく。
 まだ二十歳前後であろうか。
「さあ」
 若い娘は手を差し出す。
 男はその白いほっそりとした手を取った。
 その時、旋風が駆け抜けた。
 突然のつむじ風に、多くの人々は目を閉じた。
 アスファルトの上の、小さな砂塵が舞い上がる。
 柔らかな粘膜や皮膚を傷つけながら、微細な石は踊る。
 そして、唐突に風は止む。
 通りすがりの人々は己の職務を思い出し、歩き出す。
 男はまた、スニーカーの底を眺めていた。
 若い娘の姿はいない。
 男は風景の一部である。
 気を止める者も少なかった。好奇心旺盛な輩も、男を目の端で捕らえてはすぐさま放した。
 それぐらい男はつまらない者なのだ。
 そのため、男の前に若い娘がいたことなど、衆人の関心ごとであろう筈もなく。
 若い娘が消えたことを人々は知る筈もなかった。
 いや、若い娘がいたことすら人々の記憶からは消去されたのだろう。
 ありきたりの風景の中、男はただぼんやりと時間を無駄に過ごしていた。
 それだけである。
 多くの人々は、星の数ほど連続した時間の中、駆け足に立ち去っていく。
 隣り合う赤の他人に無関心で、並べられた選択肢の中を消去法で無難にやり過ごしている。
 だから、ここに男がいたことは、誰の記憶にも残らない。
 この日は、よくある天気の良い日のことである。

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