世界中がお祝いしてくれるのよ
「解散!」
 疲れたと言わんばかりに、景気良く進行役の二年の北条夜来は言った。
 先ほどまで持っていた書類を机の上に置くと、それに肘をつく。
 都合により隣の席に座ることになった風紀委員長を兼ねているの樋口華蓮が、書類を挟み込んであるクリップボードの背の部分で、容赦なく夜来の頭を引っぱたいた。
「だらしない」
 華蓮は夜来の顔を見もせずに言った。
「んだと!」
 夜来は立ち上がり、机をドンっと叩く。
「お疲れ様でした」
 二人のやり取りを気にせずに、生徒会長は言う。
 その顔色も、優れていなかった。
 体調不良というよりも、雑務に負われて疲労が蓄積しているだけだろう。
 さっと立ち上がったのは早川綺月だ。
 三年の先輩と生徒会長に、目礼するとすっと生徒会室から出て行く。
 生徒会役員たちは、「疲れた」「お腹が空いた」と口にしながら帰宅準備を急ぐ。
 誰だって早く学校から解放されたい。
 特に、この時期ともなれば。
 緒方和歩は数少ない例外だった。

    ◇◆◇◆◇

 窓の外は真っ暗だ。
 暗いのが問題ではない。
 寒いのが得意ではないのだ。
 昼に暖められたコンクリートも、すぐさま冷却される。
 帰り道の寒さは天気予報に言われなくても、予測できた。
 和歩は図書室に続く階段を昇っていく。
 時間と、この時期ということも手伝って、人気はない。
 すれ違う人間がいない……いないが、声が追いかけてきた。

  『――all the way!』

 女子の歌声が階段を上ってくる。
 音域はメゾソプラノに区分できるだろう。
 ソプラノにも近い軽い声としっとりとして豊かなメゾソプラノらしい声が重なっている。
 歌詞通り、響き渡っている。
 歌唱訓練を積んでいない者が正確な音で歌うことは、ほぼ不可能である。
 それが個性であり、ときに味わい深いものになる。
 が、軽い声は、確実に音を外していた。
 半音。
 レに#がついているのだ。
 音痴と他人から指摘されるレベルだろう。
 もっとも、歌が正確に歌えないからといって、人生が惨憺たるものになるわけではない。

  『A day or two ago――』

 綺麗な発音だけに、半音外れがユニークに感じた。
 正確に歌う声と不協和音になっていないので、美しいハーモニーと風紀委員長は皮肉げに笑う可能性があると、和歩は考えた。
 陽気な冬の歌は、少年に追いつく。
 正確に歌っていたほうが、先に途切れる。
 ワンフレーズほど遅れてユニークな歌声が
「和歩君」
 と、一続きになっていたように言った。
 首を捻れば、クラスメイトの北斗射那がいた。
 その一段下には、顔を紅くしている四恩好貴。
「だから言ったのに……」
 好貴は呟く。
「ごめん、耳障りだった?」
 射那は笑いながら階段を昇る。
 立ち止まる義務がないことに気がついて、和歩もまた歩き出す。
「別に」
 少年は言った。
「今まで、生徒会?」
 射那は言った。
「射那と四恩さんは、歌の練習をしていたんだ」
 6時間目が終わってから、だいぶ経つ。
「テスト勉強!
 あ、どうしても数学でわからないところがあったから、それで。
 射那に教えてもらっていて。
 それから本の返却日なのを思い出して。
 歌を歌っていたのは……!!」
 しどろもどろに好貴が言う。
「もうすぐクリスマスでしょ?
 だから」
 好貴とは好対照に、射那は弾むように言う。
「クリスマスだと歌うの?」
「和歩君は歌わないの?」
「射那。誰も、あなたと一緒じゃないのよ」
「好貴だって歌っていたじゃない」
「それはあなたが歌って、って言ったからで。
 授業じゃあるまいし、歌わないわよ」
 好貴はまくし立てるように言った。
「クリスマスって素敵だと思わない?」
 気にも留めずに射那は言う。
 この数年、和歩は12月24日から25日にかけてのイベントを無視している。
 必要性を感じないためだ。
 幼い頃は、ケーキだターキーだと騒ぎ出し、ツリーを飾る人物がいるため、それなりにクリスマスらしいことをした記憶がある。
 その叔母も年末進行という響きの言葉と仲良く仕事をしているし、高校に入学してからはマンションの一室を借りて一人暮らしだ。
 住み始めて8ヶ月の部屋にはツリーはない。
「世界中がお祝いしてくれるのよ。
 おめでとう、おめでとうって」
 射那は違和感のあることを言った。
 クリスマスはキリスト教の最大行事であり、イエス・キリストの生誕したことを祝う日だ。
 和歩はクラスメイトを見た。
「誕生日なの」
 嬉しそうに射那は言った。

 ああ、それで。
 君は優しい……。

 和歩は納得した。
 一足早く誕生日を迎える少女が、いかに優しい存在だか。
 それを心の中に刻みつけられた。
 頭に並べられていく記録のような記憶ではなく。
 忘れたくない思い出の一つになる。
「覚えておくよ」
 和歩は言った。
 プレゼントは何が良い、とは訊かなかった。
 12月25日は冬休みだ。
 彼女と会う機会はない。
「ありがとう」
 射那は満足そうに言うと、階段を駆け上がっていく。
 定番のクリスマスソングのハミングが遠ざかっていく。
 レに#がついて、半音外れの声が。
「射那。
 恥ずかしいから、やめなさい!」
 好貴は和歩と目が会うと、微笑らしきものを浮かべた。
 困惑したとき、日本人がよく見せる表情だ。
 それから、友人の後を追う。
 和歩は静かになっていく空間で、足を止めた。
 深い意味もなく窓の外を見やる。
 蛍光灯の反射で鏡のようになったガラス窓の奥に、夜の景色が広がっていた。
 キリスト教徒ではないから、クリスマスを祝う気はない。
 けれど……。

 この狭い世界の中で出会った人物の誕生日を祝うのは、それほど見当外れのことではない。
 ♯のついたレ音程度には、許されことだろう。
 和歩はそう思った。
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