気にしてくれる人がいるのは、幸福なことだよ
 放課後の夕焼けは格別だった。
 家に帰りたくない、からなのかもしれない。
 先延ばしにしたところで、良いことなど一つもない。
 スケジュールを崩してまで、わがままを言う勇気もない。
 隙間のように空いた、この時間の夕焼けはじんわりと胸にしみる。
 学校内をくまなく歩き回って、一番美しい夕焼けを探したこともあった。
 季節によって、だいぶ見え方が違うが、結局、一つの場所に落ち着いた。

「はっきり言って邪魔なんだけど」
 クラスメイトの少女は言う。
 はっきりどころか、言われたほうが傷つくようなセリフだ。
 ところが彼女が怒りながらいうと『もっともな言葉』に聞こえる。
「君の邪魔をしているつもりは、ないんだけどね」
 弱ったなぁ、と畠山楽璃は思った。
「事実だから。
 もう少し、自分の立場というものを考えたほうが良いんじゃない?」
 腰に手を置き、胸をそらして、四恩好貴は言う。
 女子にしては背の高いほうである少女がそうしても、楽璃から見れば小さくて可愛らしい。
 身長差というものだろう。
「はぁ」
「夕焼けなんて、どこがいいのよ」
 数少ない楽璃の趣味を、少女は真っ向から切り捨てる。
「夕焼けには全てが詰まっていると思うんだけど」
「単なる一日の変化じゃない。
 それに、どこで見ても一緒でしょ。
 私の邪魔にならないところで、じっくりと鑑賞すれば良いじゃない」
 利己的な言葉を苛立ちながら少女は言った。
「そうは言っても、どこの夕焼けでも同じというわけではないんだ。
 場所によって、見え方が全然」
「あなたがここにいると、うちの部員の手元が狂うみたいだから、他の場所に行って欲しいとお願いしてるんだけど」
「どうしてなんだろうね……」
「決まってるでしょ!
 成績が良くって、家柄良くって、生徒会役員をやってるんだから、それなりにファンがいるのよ!
 自分の立場をお考えになったら、どう? 『黄昏の君さま』」
 嫌味のように楽璃のあだ名を言う。
「……家といっても、うちはたいしたほうじゃないかなぁ。
 先輩たちのほうが」
「手ごろなのよ。
 玉の輿を乗る自信がない女の子たちもいるし。
 あなただったら何とかなりそう、って淡い期待する子だっているの」
「はぁ」
 楽璃は苦笑する。
 ここまでキッパリという人間は少ないだろう。
 何の計算もなく、少女は言うのだ。

   ◇◆◇◆◇

「そろそろ、施錠するよ」
 抑揚のない平坦な声が告げる。
 同級生のものよりも、もっと平坦な声だ。
 機械を通したような声で話す知り合いは一人きり。
 早川綺月が戸口で立っていた。
 背の高い女性と勘違いしそうな中性的な容貌の先輩は、楽璃の傍までやってきた。
 音楽科用の練習ルーム、グランドピアノの近くまで。
 蓋の閉じられているピアノに
「弾かないの?」
 綺月は尋ねた。
 椅子に腰掛けている楽璃は苦笑した。
「ピアノは習ったことがないんです」
 早川先輩は小首をかしげ、それから白い手が蓋を開ける。
 ほこり除けの布を邪魔にならない位置によけると、おもむろに細い指が白鍵と黒鍵を叩く。
 それは緩慢にメロディになる。
 どいたほうがいいのかな、と楽璃はちらりと考えた。が、結局、座ったまま一フレーズを聴いた。
「上手ですね」
「芽生が喜んだから」
 幼なじみの少女の名前を挙げ、綺月は儚げに微笑んだ。
 きっと、その少女が喜ぶものなら何だって完璧に覚えるのだろう。
 そういう繋がりを先輩が持っていることを、楽璃は羨ましく思った。
「先輩が施錠なんて珍しいですね」
 風紀委員長は別の先輩の役職だ。
 生真面目な風紀委員長がサボるとは思えない。
「今頃、病院」
「珍しいですね」
「ここに君がいるよりは珍しくない」
 綺月は窓の向こうを見やる。
 落ちていく夕日が……ある。
「ここの夕焼けも綺麗なんですよ。
 普段は先客がいますから」
 放課後、音楽科用の練習ルームの中でも、格別人気のない部屋。
 施錠がてらに風紀委員長が趣味で一曲、ピアノを弾いていくので有名だった。
 ときに、ガラスのようなソプラノが加わる。
 それを邪魔するような人物はいなかった。
 楽璃は薄暮になりつつある夕日を眺める。
「てっきり、四恩さんとケンカをしたのかと思った」
 クラスメイトであり、料理研究部の部長の名前が出る。
 裏も表もない親切な少女から、何故か楽璃は嫌われていた。
 温厚、で通しているつもりなので、彼女とのいさかいは……かなり体裁が悪かった。
「……。彼女から文句を言われるのは日常ですね」
 放課後に夕焼け鑑賞していると、怒られる。
 生徒会の仕事で行っても、やはり怒鳴られる。
 口論にならない日のほうが珍しい。
 二年に進級してから、関係は悪化する一方だった。
 どこかで、掛け違えたボタンがあるのかもしれない。
「幸せだね」
「そうですか?」
「気にしてくれる人がいるのは、幸福なことだよ」
 抑揚のない声は、教科書を読むように言う。
 一つの真理であった。
「そうですね」
 楽璃はうなずいておいた。

 あの場所の夕焼けにこだわるのは、彼女と何かしらの関係を築き上げたいという、欲求の表れなのだろうか。
 楽璃の目は、すっかりと姿を消した太陽の背中を探していた。
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