心配してくれて、ありがとう
 部活が終わって、生徒会室に向かう途中だった。
 夏季休暇中とあって、人気はない。
 ふと思い立って、自分の教室のドアに手をかける。
 ガラリッと音がして、ドアはスムーズに開く。
 誰もいない教室は静けさを漂わせて、そこにいた。
 窓ガラスから差し込む日差しは、すでに黄昏色。
 きちんとドアを閉めて、自分の席に座ってみる。
 机の色も、椅子の具合も、黒板も何一つ変わらなかった。
 ただ自分だけが違う。
 畠山楽璃は、だらしなく頬杖をつく。
 それから息をそっと吐き出した。
 閉め切っていた教室は、何ともいえない匂いがする。
 孤独の匂いだ。
 人がいない。
 それが埃になって、塵になって、積もった匂い。
 夕方の弱い光線が長い影を床に作り出している。
 何となしげに見つめながら、思考する。
 自分はいったい何をしているんだろうか。
 体にへばりついた疲労と共に。
 ぼんやりと時が流れていく音を聴く。
 それは夕焼けのように曖昧で、終わりが来るものだ。

 ガラッ

 教室のドアが開いた。
 反射的に楽璃は、頬杖を止めた。
「黄昏の君様は、黄昏中?」
 不機嫌にクラスメイトの四恩好貴が言った。
「君は、部活中?」
 少年は人の好さそうな笑顔を浮かべて尋ねた。
「図書委員会の当番だったのよ。
 それだけ」
 少女は言った。
 何かと敵対視してくるクラスメイトだった。
「教室に寄る必要はないんじゃないかなぁ」
 楽璃はつぶやいた。
「通り道よ。
 無人の教室に人がいたら、誰でもドアを開けたくなるでしょ」
「少数派だと思うよ。
 世間では、事なかれ主義者のほうが多いからね」
「何していたの?」
「夕方を鑑賞中」
 楽璃は簡潔に答えた。
 夕日にあわせて、影はどんどん長くなっていく。
 夜が来るまで、影は地面にぺたりと貼りつく。
「見てなかったじゃない」
「沈んでいく夕日を見るだけが黄昏の楽しみ方ではないよ」
 少年は少女を見上げた。
「さすが、黄昏の君ね」
 好貴は少年のあだ名を強調する。
 夕焼けが好きだからと献上された二つ名は、実に雅やかだった。
 体が大きく、全体的にがっしりとした印象を他人に与える自分には似合わない。
 こういった美しいあだ名は、線が細く、中性的な男のほうがふさわしいだろう。
 気がついていたが
「ありがとう」
 少年は非の打ち所のない笑顔を浮かべて言った。
 それに少女は眉を吊り上げた。
 造作は悪くないのに、もったいなかった。
 正統派美少女の目鼻立ちも機嫌が悪ければ、2割減だ。
 そういえば少女の笑顔を見たことがない。
 いや、他人に向ける笑顔は見たことがある。
 取り澄ました作り笑いも見たことがある。
 けれど、心からの笑顔を向けられたことはない。
 当然といえば当然。
 彼女に嫌われいるのだ。
 嫌いな相手に、満面の笑みを見せる奇特な人間は少ないだろう。
「邪魔して悪かったわね。
 じゃあ」
 好貴はきびすを返す。
 長く艶やかな髪が背を揺れる。
「心配してくれて、ありがとう」
 楽璃は言った。
「だっ! 誰が心配なんか!
 別にそんなつもりじゃないわよっ!」
 少女は怒鳴ると、教室のドアを叩きつけるように閉めた。
 急速に遠ざかっていく足音を聞きながら、楽璃は頬杖をつく。

 もうすぐ夕方は終わろうとしていた。
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