キスの日
「今日は5月23日」
 抑揚の乏しい声が言った。
「誰かの誕生日だっけ?」
 背の高い少女が首をかしげた。
 長い髪が肩から零れて、背に落ちた。
「恋文の日」
 和歩は言った。
 並んで歩いている射那はブラウスのボタンをひとつ外した。
「ああ、それで売店のレターセットが売れてるんだ」
 今日は暑いね、と射那は首筋の汗を拭う。
「寄り道して、コンビニでアイス買わない?」
 と少女は言った。
 もう夏だねーと笑う。
 アイスが美味しい季節になったね、と射那は独り言のように言う。
「あ、もしかして和歩はラブレターが欲しい?」
 欲しいなら、今からでも書くけど。と付け足すように言った。
「もう一つ、記念日でもあるからそっちのほうがいい」
 和歩は日焼けしない少女の白い肌を見つめる。
 背丈はあまり変わらないが、いや背丈が変わらないからこそ視線が会う。
 恋文を貰うよりも直接、言われるほうがいい。
 その方がシンプルで、嬉しい。
「どんな記念日なの?」
 無邪気に少女が尋ねる。

「キスの日」

 和歩は淡々と言う。
 少女が立ち止まった。
 メガネの奥の瞳は、大きく見開かれた。
「射那は僕にくれる?」
 付き合いだして、そろそろ半年。
 初めてのキスはとっくのとうに済ませている。
 それでも記念日だと言われると欲しくなる。
 自分にこれほどまで、貪欲な感情があるなんて和歩は知らなかった。
 射那だけに真っ直ぐに向かう欲望。
 恋に落ちるというのは、こういうことだと教えられた。
 少女の頬が紅潮する。
 暑さのせいだけではないだろう。
「こんな道端で?」
 ギクシャクとした口調で射那は言った。
「駄目?」
 どこでしようが、変わらない。
 少女とふれあうのは気持ちがいい。
 他人と関わるのはあまり好きではなかったけれども、少女は例外だ。
 ずっと、ふれていたいと思う。
 チャンスは逃さない主義だ。
「駄目に決まっているでしょ!」
「じゃあ、僕の家ならいい?」
「それはそれで問題があると思うんだけど」
 少女は困ったように言う。
「たまには射那からしてくれてもいいと思うんだ」
 和歩は言った。
 一方通行のような気がする。
 どれだけ思っても、伝わりきれない感じがする。
 冷房の利いた部屋で、少女と抱き合いたい。
 汗と制汗スプレーの香りが和歩を誘う。
 少女はメガネを外し、少年の頬に唇を寄せた。
 さらりとした感触はすぐさま離れた。
 期待外れのキスだった。
「これで勘弁して」
 射那は言った。
 恥ずかしそうな少女に新鮮なときめきを覚える。
 何度でも、恋に落ちる。
 少女と付き合って、当たり前がない。
 いくつものドアを開かれていく。
 和歩の小さな宇宙は、無限に広がっているということを知らされる。
「今日のところは、これで我慢する」
 少年は不満そうに言った。
 満足には程遠かったが、少女は精一杯応えてくれた。
 だから、これ以上を求めるのは酷だろう。
「コンビニでアイス、おごってあげるから」
 と少女はメガネをかける。
「アイスよりも射那の方がいい」
 和歩は正直な言葉を放つ。
「本当に勘弁してよ。
 暑いのと緊張で、ドキドキしているんだから」
 射那はハンカチで首筋を拭う。
「僕は射那が好きなんだ。
 だから、射那からいっぱい欲しい」
 和歩は白い首筋にくちづける。
 塩に似た味がした。
 制汗スプレーの香りが少女らしいと思った。
 本当はもっとさわりたかったけれども、我慢した。
 欲望が首をもたげたけれども。
 白い肌に痕が残った。
 それで満足することにした。
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