おまじない
 そろそろ寝ようとしていた頃だった。
 好貴が『おやすみ』メールを送ろうとしていたところで、手にしていた携帯電話が振動した。
 液晶画面には『畠山楽瑠』の文字が浮かんでいた。
 好貴は慌てて、通話ボタンを押す。
「こんな時間にごめん」
 電話先の声は、どこか沈んでいた。
 常識人の彼が夜分遅くに、電話をかけてくるのは珍しいことだった。
 好貴の心が不安で揺れる。
「どうしたの?」
 悟られないように落ち着いて尋ねる。

「君の声が聴きたかったんだ」

 囁くように静かな声に、好貴の心臓が跳ねる。
 耳を澄ませば、街の賑やかな音が混じっていた。
 家の中では電話もかけられないのだろう。
 厳しい家柄だということは、好貴も知っていた。
 だから、寝る前の『おやすみ』と目覚めの『おはよう』は、メールでのやりとりだった。
 それに不満はなかったけれども。
「今日も会ったじゃない」
 好貴はなるだけ明るい口調で言う。
 デート場所はブックカフェといういたって健全な場所だった。
 今時の高校生同士のデートコースとは思えない。
 付き合いたての好貴のことを考えて、静かな空間を選んでくれたのだろう。
 図書委員会に入っている好貴にとって、本は馴染みがある物だった。
 お小遣いではなかなか買えない本を読めるのは貴重なことだった。
 料理の雑誌を見ていたら、作ってみたい物が増えた。
 たまに言葉を交わして、ページをめくる音を聞くのは幸せな時間だった。
「そうだね。
 好貴と一緒にいられた時間は、あっという間だったよ。
 思い出したら、ちょっと……寂しくなったんだ」
 楽瑠が弱音を吐いた。
 華やかな噂の持つ主とは思えなかった。
 まるで迷子になった子どものようだった。
「また明日、学校で会えるわよ」
 好貴は慰めの言葉を思いつけずに、ありきたりなことを言った。
「うん。知っている。
 早く朝になってほしい気分だよ」
 楽瑠は言った。
「私にできることはある?」
 好貴は訊いた。
 会話が途切れた。
 街の喧騒だけが好貴の耳元に響く。
 どうやら見当外れなことを言ってしまったようだ。
 お付き合いというのは難しい。
 そんなことを思い知らされた。
 楽瑠の抱える孤独は重たく、深い。
 息ができないほど深海に沈んだような気がする。
 溺れかかる一歩手前で
「今日はメールじゃなくて、直接、言って欲しいな」
 楽瑠は穏やかに言った。
 『何を?』と尋ねるほど好貴は鈍感ではなかった。
 できるだけ優しい声音で。
 できるだけ温かい声音で。

「おやすみなさい。
 良い夢が見られますように」

 電話口にリップ音をつけたす。
 直接会って、額に口づけできない分、心を籠めて。
「……すごいおまじないだね。
 明日の朝まで持ちそうだ。
 ありがとう」
 声が震えていた。
 どんなことがあったのだろうか。
 どれほど辛いことがあったのだろうか。
 尋ねても答えてはくれないだろう。
 偽善という仮面をつけて、人当たりの好い笑顔で『何でもないよ』と言うだろう。
「おやすみ。好貴。
 また、明日」
 楽瑠の声は震えたままだったが、通話が切れた。
 ツーツーという音が耳に届く。
 好貴はしばらく携帯電話を握っていた。
 朝になれば解決するのだろうか。
 少なくとも、一緒にいる時間が延びれば寂しい思いはしないだろう。
 独りきりで眠れぬ夜を過ごすよりも、幾分かはマシだろう。
 好貴には『畠山楽瑠』という人物がつかめない。
 謎を埋めていけるだろうか。
 分からないことだらけだった。
 好貴は携帯電話を充電して、ベッドにもぐりこむ。
 明日という字は明るい日と書く。
 迎えに来てくれる彼の為にも、笑顔の準備をしなければ。
 好貴にできることをするだけだ。
 今はそれでいい。
 遠い未来、本音を話してくれる日まで、じっくり待てばいい。
 好貴は電気を消すと、ゆっくりと目を瞑った。
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