ホワイトデー
 待ち合わせの喫茶店の入り口のベルが鳴った。
 ぬるくなった紅茶を飲んでいた春晏は顔を上げる。
 二つ年下の恋人と目が合った。
 モデルになってもおかしくはない典雅な表情が崩れる。
 本当に嬉しそうな顔だったから、春晏は心の中でためいきをついた。
「シュン」
 と灯影は飛び切りに甘い声で呼ぶ。
 春晏の向かい席に座ると、ブレンドをオーダーする。
「ハッピーホワイトデー!」
 静かな喫茶店にあわない声量で言った。
「そうね」
 春晏はティーカップを置いた。
 付き合いたての恋人は、可愛らしいラッピングのクッキーを差し出した。
「あれ、嬉しくない?」
 灯影は不思議そうに言った。
「これ、手作り?
 器用ね」
 と春晏は小袋にふれる。
 アイシングで『愛している』と書かれていた。
「シュンへの愛は惜しまないから」
 堂々と灯影は言った。
 思わず恥ずかしくなる。
「バレンタインにチョコをあげた記憶は、ないんだけど」
 春晏は恋人の目を見つめる。
「俺がシュンにあげたかったから、用意したんだけど。
 それにイチゴポッキーをくれたじゃん」
 灯影は幸せそうに言った。
「見合わないわよ」
 まるで二人の関係みたいに。
 モデルになってもおかしくない美形な少年と付き合っていること自体、不思議だった。
「俺が大好きなイチゴポッキーをもらって、幸せな気分なんだけど、それじゃあダメなの?」
「思い切り義理チョコだったし」
 春晏は視線を紅茶の水面にそらす。
「それでも嬉しかったよ」
「こんなたいそうな物をもらう資格はないわよ」
 春晏は呟くように言った。
「シュンは俺の一番星。
 それもキラキラと輝くシリウスみたいなものだよ。
 それにイチゴポッキー、懐かしかったし」
 灯影は熱を入れて言う。
「……懐かしいね」
「俺とシュンを繋いだ物だよ。
 それともダイヤモンドの指輪の方が良かった?」
 突拍子もないことを灯影は言った。
「は?
 なんで、いきなり話が飛躍するの!?」
 春晏は顔を上げた。
「いつかは左手の薬指にしてもらうんだし。
 早いか、遅いかの違いしかないよ」
 と灯影が言ったところで、ブレンドの珈琲が運ばれてきた。
 そこに少年は、砂糖とミルクをたっぷりと入れる。
「意味分かっていて、言っているの?」
 頭が痛い、とはこのことだ。
 春晏はためいきをつく。
「もちろん。
 シュンとだったら一生一緒にいられる、って確信があるんだ」
 灯影は甘くなった珈琲を口につける。
「その自信はどこからくるの?」
 春晏は呆れながらも尋ねた。
「きっと、ずっと前から決まっていたんだよ。
 二人は恋に落ちるって。
 今度こそ、幸せになれるって」
「……幸せねー」
 付き合いたての恋人は、夢みたいなことを言う。
「俺はシュンを愛している。
 この想いは変わらない」
 灯影は真剣に言った。
「いつから想うようになったの?」
「出会った時から。
 一目惚れと言ったら信じる?」
 真摯な瞳で灯影は言う。
「嘘みたい」
 春晏は紅茶を一口、含む。
「三百六十五日、シュンのことを想わない日はないよ。
 でも、きっとシュンは信じないんだろうね」
「そうね」
「さすがに即答は、傷つくんですけど」
 灯影は瞳を半ば伏せた。
 あまりに綺麗すぎて、造り物の人形のように見えた。
「灯影くんでも傷つくことなんてあるのね」
「シュンの言葉だからだよ。
 好きな人から嫌われたら悲しくない?」
 そろそろと灯影はまぶたをあげた。
「だって、夢みたいなんだもの」
 春晏はすっかり冷めた紅茶を飲む。
「どうすれば信じてくれる?」
「自分の口で、信じないって言ったばかりじゃない」
「シュンの過ごす日々は、本当に貴重で、嬉しいんだ」
 いじけたように灯影は言った。
「そうね……。
 灯影くんがもっと大人になったら、信じるかもしれないわね」
 春晏は微かに笑みを浮かべた。
 年下の恋人の言葉は、どこか夢を見ているようで、ふわふわとしている。
 それを信じろ、というのは無理な相談だった。
「約束だよ!」
 灯影は勢いよく言った。
 それまで付き合っているか、どうかもわからない。
 そんな未来を描いて
「約束ね」
 と春晏は軽く約束をした。
 それを後悔する日がやってくることは、春晏にとってまだ先のことだった。
 幸せそうに珈琲を飲む恋人を見て、今はまだこれでいいと思ったのだった。
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