日常
 私立明智学院。
 安在グループが作り上げた幼稚園舎から大学院までの一貫教育を掲げる学校。
 真に国際的な人材を育て上げるために、その門戸は広い。
 ……つまるところ、公立の学校並みに学費が安い上に、学校で必要な物は無料配布ときている。
 夏服、冬服、体操着に、上履き、教科書、副教材……etc。
 今どき義務教育中でも、そんな家計に大助かりな学校はない。
 そのため、とてつもなく、倍率が高かったりする。


 高等部、五階図書室。
 その日の図書当番は、三年生の古賀春晏だった。
 貸し出しのカウンターで、春晏は暇つぶしに本を読んでいた。
 五階にあるせいで、放課後の図書室の利用率は低い。
 今なんて、人っ子一人いない。
 酷い日になると、図書館を閉める六時まで誰も来なかったということもある。
 ただ、春晏は三年生になってからそんな幸運な日に当たったことはない。
 彼女がいる日は、必ず本を借りに来る生徒がいるのだ。
 でも、今日は来ないかもしれない。
 春晏はそう思い始めた。
 時計は五時五十分を示している。
 春晏は読んでいた本を閉じる。
 来ないなら来ないで、別にかまわない。
 その方が良いかも知れない。
 春晏は立ち上がり、本を元の場所に戻した。
 それから、図書室のカーテンを閉め始める。
 そろそろ、帰る準備を始めなければ。
 六時ジャストに施錠がベスト。
 たまには、ぴったり定刻に帰ってみたい。
 帰れるかもしれない。
 すっかり帰り支度の済んだ春晏は学生カバンを膝の上に乗せて、時計と睨めっこする。
 ワクワクするにも似た、ドキドキ感がある。
 歳よりも幼く見える顔に、微笑が浮かぶ。
 が、彼女の期待はあっけなく打ち砕かれた。
 廊下を走る音。
 勢いよく男子生徒が、入ってきた。
「シュン先輩!」
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに少年は笑った。
 芸能界に入ったらどう? と言いたくなるような美少年だ。
 その笑顔に何の感慨もなく、春晏は時計を見た。
 悔しいことに、六時前だった。
「頑張って走ってきたんだ。
 間に合って良かった」
 一年生の岡崎灯影は言った。
 走ってこなくても、良かったのに。
 正直、春晏は思った。
「会議があるから、今日は来ないかと思ってた」
 春晏はためいきをついた。
「そんなことぐらいじゃ、シュン先輩への愛は揺るがないよ」
 とても、楽しそうに灯影は言った。
「途中で抜け出したりして来てないでしょうね?」
 やりそうで恐かったので、春晏は訊いた。
「ちゃんと、会議の最後までいたよ。
 偉いでしょう?」
 褒めて褒めて、とニコニコ笑顔で言う。
「当たり前でしょ?
 生徒会役員なんだから」
「当たり前のことを当たり前のようにやるのが一番難しいんだよ?」
 数冊の本を持って、灯影はカウンターにやってきた。
 相変わらず、よくわからない本を借りていく。
 物理の本に、エッセイ、哲学書。
 彼は、乱読派なのだ。
 文字であれば良い、という考えが良くわかる。
「これだけでいいの?」
 春晏は念のために訊いた。
 文庫本三冊。
 普通の生徒なら充分な量だが、目の前の少年には明らかに足りないはずだ。
「シュン先輩、明日も図書当番でしょ?」
 灯影は言った。
 つまり、彼はこの量を一日で読みきってしまうということだ。
「貸し出しルールさえ守ってくれるんだったら、かまわないけどね」
 春晏は貸し出し手続きが済んだ本を、カウンターの上に置いた。
「シュン先輩、一緒に帰ろうよ」
「同い年の子たちと、一緒に帰りなさい」
 春晏はにっこりと言った。
「シュン先輩と、が良い」
「友だち、いるでしょ?」
「えー、いないよ。
 ほら、こう見えても人見知りが激しいから」
 わざとらしく、灯影はうつむく。
「そんなこと言って……」
「一人で帰るのって、けっこう寂しいんだよ。
 家には誰もいないし……。
 こうして、話すのって……ここぐらいだし」
 灯影は寂しそうに言った。
 明るく、うるさいぐらい元気な後輩が一人暮らしをしているのは、本人から聞いて知っている。
 おしゃべりなのに、家族の話を一切しないところを見ると、何か事情があるようだし。
 彼の担任からも、よろしく頼むと言われたぐらいだ。
「しょうがないわね。
 今日だけよ。
 いつまでも、一緒にいられるわけじゃないんだから」
「本当?
 一緒に帰ってくれる?」
 さっきまでが演技だったんじゃないかと思えるぐらい、灯影は嬉しそうに言った。
 春晏はかなり後悔した……。
「シュン先輩って、優しい」
 うっとりと灯影は言った。
「さっさと、帰るわよ」
 春晏はためいき混じりに言った。
「うん!」

   ◇◆◇◆◇

「これなんか、シュン先輩に似合いそうだと思うんだけど」
 灯影は言った。
 春晏は、げんなりする。
 見なくても少年が指しているものの想像が大体つく。
 もう短いとは言えない季節、一緒に過ごしているのだ。
 彼の好みは、とてもはっきりしている。
 春晏はちらりとショーウィンドウを見た。
 案の定、とても女らしいデザインの服がコーディネイトされていた。
 これが、露出度の高いワンピースや体のラインが綺麗に出るスーツだったら、ここまで春晏は呆れない。
 誰が見ても文句なしの美少年は、甚だしく少女趣味なのだ。
 ガラスの向こうには、真っ白なワンピース。
 リボンに真っ白なレースに、手の込んだフリルに、くるみボタン。
 裁縫の集大成とも言えるほどに手の込んだ洋服。
 いわゆる『ロリータ』と言うデザインだ。
「絶対、似合うよ」
 灯影は太鼓判を押した。
「……」
 そこら辺の女子高生よりは、似合うだろう。
 歳を三つさば読んでも誰も疑わないどころか、それよりも年下に見られる容姿だ。
 童顔で、背が低く、出るとこも出ていない体形ともなれば、こういう服が似合ってしまうかもしれない。
 だが、春晏の趣味ではない。
「嫌」
 春晏はキッパリと言った。
「どうして?
 もったいないよ。
 絶対、似合うのに」
「こんな服着て、どこへ行けばいいのよ?」
「普段着」
「できるわけないでしょっ?
 こんな、派手な服!」
 春晏は怒鳴った。
「じゃあ、クリスマスとか」
 灯影は提案する。
「どこのパーティーに行けと言うの?
 私の家、思いっきり、貧乏なんだけど」
「見るだけ見ようよ。
 きっと、気に入るものがあるよ」
 灯影はそう言うと、強引に春晏は店内に連れ込んだ。
 
   ◇◆◇◆◇

 どうにか何も買わずに、店を出られたのは三十分以上後のことだった。
 買いたそうにしていた灯影を、引きずるように手を引いて駅に向かう。
 この調子ではいつまでたっても、家にたどり着きそうにはない。
「シュン先輩って、ホントに遠慮がち。
 買ってあげるのに」
「いいの!
 あんな高い物買ってもらう理由がないわ」
 春晏が普段着ている服と一桁は違っていた。
 あんな店で一揃えしたら、福沢諭吉が何枚必要だかわからない。
「似合うから」
「無駄遣いしないの!
 灯影くんには、ぴんと来ないかもしれないけど。
 お金を稼ぐって、大変なんだから」
 春晏は大きな駄々っ子に言った。
「慎ましやかだね。
 お金って使ってこそ意味があると思うんだけど。
 消費しないと、経済はいつまでたっても良い方向には転ばないと思うし」
「使うな、とは言ってないわよ。
 必要ない物を買うのを止めなさいって言ってるの」
「……シュン先輩がそこまで言うなら諦めるけど。
 絶対、似合うよ」
 灯影は残念そうに言った。
 全然、諦めていないし、春晏の言うことを理解していない。
 春晏は頭が痛かった。
 明智学院は春晏のように、公立に行くよりも学費が安いから。と言う理由で受けた者もいれば、灯影のように生粋の金持ちもいるのだ。
 一体どこからお金が湧いてくるのか、湯水のように消費しようとする。
 しかし、解せない。
 岡崎灯影は、かなり裕福な家の子どもだろう。
 話や、行動で、それ以外何者でもないと判断できる。
 どうして、春晏と一緒になって歩いているのだろうか?
 普通、ある程度の家の子どもは車で送り迎えが基本だろう。
 実際、明智学院の放課後はお迎えの車の行列ができる。
 稀に、徒歩で通学する者もいるが、必ずお付の者や、ご学友兼世話係の生徒と一緒に下校をする。
 灯影はいつも自由で、大概一人で出歩いている。
「どうしたの? シュン先輩」
「なんでもない」
「……なんでもないって顔じゃないけど。
 何か悩み事?
 俺でよかったら、相談に乗るよ」
 灯影は心配そうに覗きこんでくる。
「どうやったら、あんたに友だちができるのか考えていたのよ」
 春晏は投げやりに言った。
「あ、それはムリ」
「無理って即答しないでよ!」
「だって、ほら、俺ってば稀に見る美形な上に、成績優秀、スポーツ万能、生活科も美術も花丸だし、生徒会役員でしょ?
 友だちなんて、一生できないね」
 あっさり、にこやかに少年は言った。
「ほら、同じ生徒会役員の橘くんとかは?」
「美澪?
 だって、あいつ根暗なんだもん。
 話、全然合わないし。
 この歳で女の子よりも、勉強の方が好きだなんて、どっか体おかしいんじゃない?
 それともおかしいのは頭の中とか?」
 ファンが聞いたら怒り狂いそうなことを言う。
 不思議なことに、他人をここまでけなしているというのに、この少年が言うと、聞き苦しくないのだ。
「そう言う灯影くんは好きな子とかいないの?」
 早いとこ可愛らしい彼女でも作ってもらいたい。
 いつまでも、春晏は面倒を見ていられるわけじゃないのだ。
 年も暮れようとしているし、そろそろ受験勉強に本腰を入れなければならない。
 いくら付属の大学に行くといっても、試験ぐらいはある。
「シュン先輩って、残酷なくらい魅力的だね」
「はい?」
 意味を取りかねる。
「俺がこんなにシュン先輩が好きだって言ってるのに」
 灯影は言った。
 寝言は寝てから言ってほしい。と、春晏は思った。
 少年の好きは、イチゴポッキーが好きと言うのと同じだ。
 春晏はためいきをついた。
「シュン先輩、信じてないね」
「灯影くんの言うことを、いちいち真に受けてたんじゃ身が持たないもの」
「ホントのことなのに」
 少年は器用に、いじけて見せる。
「そう言うことは他の女の子に言ってあげなさい。
 私は間に合ってるから」
「え、シュン先輩、彼氏いるの?」
「いるわけないでしょう?
 あんたみたいなのに付きまとわれたら、虫のつきようがないわよ。
 それよりも、そろそろ受験だから、恋愛したくないの」
 春晏は言った。
「シュン先輩って、もしかして……彼氏いない暦と年齢、一緒?」
 恐ろしく失礼なことを言われた。
 だが、本当のことだったので、春晏は何も言い返すことができなかった。
 密かに気にしていたことだけに、かなりきつい一言だった。
「ラッキー」
 灯影はデレッとする。
 せっかくの顔が崩れるほどの、笑顔だ。
「じゃあ、シュン先輩の初めての男にして、最後の男ってのも充分可能。
 見る目のない男ばっかりで良かった。
 やっぱり、年下ってのはハンデだからね」
 訳のわからないことを言い出した。
 春晏はたじろぐ。
 このまま、ここに置き去りにしてしまおうか。
 そんなことを考えてしまったとしても、彼女の罪ではない。
「馬鹿なことばかり言ってると、置いていくわよ」
 そう言ったのは、彼女の豊富な同情心がなせる業だった。
「うん」
 嬉しそうに、灯影はついてくる。
 いつまで、こんな関係が続くのだろうか。
 春晏は憂鬱になった。


 結局、春晏は灯影に一生付きまとわれる運命にあったわけだが、この頃はまだ知る由もなかった。
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