ポッキーの日
その日もぼんやりと古賀春晏は図書当番をしていた。
すっかり日は暮れて、夜になろうとしていた。
それもそうだ。
もう11月なのだ。
暇つぶしに受験勉強用の参考書を開いていたが、目は滑っていく。
このところ勉強に身が入らない。
春晏は、そこそこの成績を修めていたので、付属の大学に上がる推薦枠は取れそうだ。
高校から持ち上がれる生徒は三分の一とはいえ、内申点のおかげで大丈夫だろうと進路指導の先生も太鼓判を押してくれた。
私立とはいえ明智学院の付属大学に通えることは魅力的だった。
高等部同様に手厚いフォローが待っている。
そこら辺の公立の大学に通うよりも授業料は安く、進路に合わせてカリキュラムが組まれている。
高校を卒業後は家庭環境を考えて、就職も考えていたのだが、両親も、担任の先生も、明智学院の大学部なら卒業をしておきなさい、と言ったのだ。
甘えることにはなるが、ありがたく春晏は受け取っておくことにした。
まだ学びたい、という欲求もあった。
いつまでも目が滑る参考書を見ていても仕方がない。
春晏は分厚い参考書を閉じた。
紙質が薄い割にはハードカバーを閉じたように、重たい音が立った。
もっともそれを聞くような相手はいなかったけれども。
ちらりと壁掛け時計を確認すると、施錠には早い時間だった。
どうやって時間を過ごそうか、と春晏が考えていると思い切りよく図書室の扉が開かれた。
乱入者は生徒会役員一年生の岡崎灯影だった。
毎度のことながら、本に対する執着心は素晴らしいものがある。
わざわざ五階にある図書室まで、駆け足で階段を昇ってきたのだろう。
綺麗な髪が少し乱れていたし、濃紺のジャケットも崩れていた。
もっとも岡崎灯影が見本通りの着こなしをしていることなど、一度も目撃したことがなかったのだけれども。
「シュン先輩、ポッキーゲームをしようよ!」
明らかに図書室で言うような声量ではない声量で灯影は言った。
しかも開口一番が、それである。
「灯影くん、図書室は飲食物は禁止なんだけど?
図書当番が終わった後なら……って、なんであんたとポッキーゲームをしなきゃいけないのよ」
春晏は呆れかえった。
今日は11月11日。
それを口実に、あちらこちらでカップルがいちゃつくところを目撃はしていた。
こそこそと隠れるようにしているので、春晏は見て見ぬふりをしていたのだ。
あるいは緊張しながらポッキーの箱を手にしている女子生徒もいた。
意中の彼と接近したいのだろう。
青春っていいなぁ、なんて暢気に春晏は思っていたのだ。
「減るもんじゃないし」
あっさりと灯影は言う。
どこかの芸能界に入ったらどう? と言いたくなるぐらいの美少年だ。
しかも生徒会役員を選ばれるだけあって、成績の方も文句なしであり、特定のファンクラブもある。
「確実に減るわよ」
春晏は訂正する。
うっかりポッキーゲームをして、わがままな後輩にファーストキスが奪われてしまったら黒歴史である。
しかも、それを写真部にスクープされた日には、二度と学校に通ってこれないぐらいのは恥ずかしい目にあるだろう。
春晏自身も極度の人見知りな上に、恥ずかしがり屋だという自覚ぐらいはある。
「それに、どこでそれを買ってきたの?」
貸出カウンターの上には灯影が持ってきたポッキーの箱があった。
イチゴポッキーとでかでかと印刷されている未開封の箱だった。
容姿に反して、存外甘党な後輩の好きな菓子の一つだった。
「え、シュン先輩と初めて出会った自販機。
みんな考えることは同じなんだね。
ラス一だったよ。
他の味は全部、売り切れ」
灯影はニコニコと笑う。
春晏は神様がいるとしたら恨みたくなった。
どうしてこんなにややこしいことに巻きこまれる羽目になったのか、と。
小一時間ほど問い詰めたくなるほどには。
「他の女の子としなさい」
春晏は冷たく言った。
「俺はシュン先輩だけがいい!」
案の定、灯影はわがままを言った。
普通の女の子だったら、よろける瞬間だったかもしれない。
が、春晏と灯影は長からぬ付き合いなのだ。
本心から言っているようには見えなかった。
「選り取りみどりでしょうが?
何だって、こんなおばさんをかまうわけ?
同級生にだって、いくらだって可愛い女の子がいるでしょう?」
春晏は言った。
同級生じゃなくても、ファンクラブがあるのだ。
本気で岡崎灯影のことが好きな女子生徒がいるのだ。
なにも二つも年上の先輩とポッキーゲームをしなくてもいいだろう。
むしろ、可愛らしい女の子たちが岡崎灯影を探し回っていたほどなのだ。
「いや、シュン先輩ほど可愛い女の子って、そうそういないと思うんだけど?」
モデル並みに整った容姿の少年はさらりと言った。
「私、あなたよりも二つも年上なんだけど?」
確かに身長は低いし、出るところが出ていない体つきであり、童顔であれば、モスグリーンのネクタイをしていなければ三年生だということに気がつかれないだろう。
「一目惚れって何度、言ったら信じてくれる?」
灯影はカウンターに手をつき、真剣な表情で言った。
「寝言は寝てから言ってちょうだい。
私は灯影くんとポッキーゲームをするつもりはないから。
それこそ未来永劫にね」
春晏はきっぱりと断った。
かなりキツイ言い方だと思ったけれども、これぐらいはっきりと言わないとこの後輩には伝わらない。
「俺、諦めが悪い方だから安心して」
灯影はにっこりと笑う。
頭が痛い、とはこのことだ。
春晏はためいきをついた。
――あの日、ポッキーを買おうと思わなければ、こうして二人は出会うはずがなかったのだ。
気まぐれに起こした自分の行動にかなり……いや、充分に後悔した。
◇◆◇◆◇
爛漫の春だった。
在校生による新入生歓迎式の前。
入学式が終了した直後。
春晏は貸出人がいるはずもない図書室に向かおうとしていた。
春休みであっても図書当番はあるのだ。
たとえ、貸出人がいなくても。
お弁当を作ってくれれば良かったと、だいぶ後悔しながらお菓子の入っている自動販売機に足を運んだ。
視界の端に入った散っていく桜が綺麗だったのがいけないもしれない。
ピンク色のポッキーの箱が目に入った。
それを購入しようとボタンを押そうとした瞬間
「それって美味しい?」
ごく間近で声をかけられた。
上から降ってくるような艶のある声に春晏はビックリして固まってしまった。
背後にいる男子生徒は気にした風ではなく、自動販売機に小銭ではなく、カードを入れて、イチゴポッキーのボタンを押した。
ガコンっと音を立てて、それは落下した。
男子生徒はそれを不慣れな手つきで取り出す。
そこで改めて、春晏は男子生徒を見ることになったのだ。
音楽科もある明智学院だから、芸能界に片足を突っ込んでいる生徒も少なくない。
実際、国際的に活躍している先輩たちもいるし、現役のアイドルもいる。
それを差っ引いても、整った容姿をしていたのだ。
ネクタイの色はクリムゾン。
あっさりとカードを使ったところを見るとエスカレーター式で入学したばかりの一年生だろう。
家柄の良い生粋のお金持ちの学生だ、ということだ。
公立の高校に通うよりも学費が安いという理由で、私立明智学院を選んだ春晏とは、住んでいる次元が違う。
若干、着崩している濃紺のジャケットには『岡崎灯影』という名札がつけられていた。
有名すぎる名前に、中学生時代の成績、内申点、それらを考慮されてランダムに選ばれた生徒会役員の一人だということがわかった。
「食べたことがないんだけど、何だか先輩に似ているね。
こがしゅんあん、で読み方あっている?」
男子生徒は笑顔でイチゴポッキーの箱を差し出した。
春晏は驚いた。
漢詩が好きな祖父が名付けたあまり有名ではない漢詩にちなんだ名前だったからだ。
春生まれの春晏に合わせた名前だったが、一度で読める人物は今までいなかった。
「初めまして、岡崎くん」
春晏は何とか声を絞り出した。
「灯影でいいよ。
あまり名字が好きじゃないんだ。
知り合いのほとんどが、みんな名字でしか呼んでくれないから、時たま自分の名前を忘れそうになる」
少年は微笑みながら重大なことを言った。
いったいどんな家庭の事情かわからないが、名前を呼んでもらえないのは辛すぎる。
自分の名前を忘れそうになるぐらいに、呼んでもらえない。
それなのに目の前の少年は気にした風ではなく微笑んでいるのだ。
「高等部の生徒会役員は名前で呼ぶのが習慣だから、今年からはたくさん呼んでもらえるわよ。
むしろ、あだ名をつけられることの方が多いぐらい。
だから、大丈夫」
春晏は言った。
微かに少年の目が見開かれる。
それから天使の笑顔とはこのことだろうか。
秀麗な顔立ちで、この上なく嬉しそうに笑ったのだった。
「だったら、一番初めに先輩が俺のことを灯影って呼んでくれる?
せっかくの出会いなんだから」
少年は言った。
すれ違っただけだ。
学年も違えば、住んでいる世界も違う。
この場限りだろう。
それでも少年の寂しさが減るならと思い、春晏は決意をした。
幸い人目はない。
「高校入学おめでとう。灯影くん」
春晏は声が震えないように気をつけながら、精一杯の気持ちをこめて少年の名前を呼んだ。
見上げなければならないほど背の高い少年だ。
これから先もたくさんの人に愛されるような生徒会役員になるだろう。
「ありがとう。シュン先輩」
少年は嬉しそうに言うと、おもむろに腰をかがめて、春晏の前髪にキスをした。
突然のことに春晏は混乱をした。
「なっ! 何するの!?」
春晏は抗議の声を上げた。
「お礼だよ。
ちゃんと名前は覚えたからよろしくね」
不慣れな手つきでイチゴポッキーの箱を開封すると一袋だけ手にして、残りを春晏に押しつけるように渡してきた。
「こ、こんなのもらえないわよ!」
春晏は驚いた。
タダでもらうよりも怖いものはない。
悪徳商法の手先だ。
それに異性に対しておごるような連中は警戒が必要だ。
下心がない、という保証はどこにもないのだ。
ただでさえ幼く見える春晏は、親戚一同に心配されまくっているのだ。
「シュン先輩って奥ゆかしいんだね。
もらえるものはもらっておいた方が人生がお得だよ。
若いうちは遠慮なんてしなくていいんだから」
達観したことようなことを少年は言う。
間違いなく、生粋のお金持ちの考え方だった。
「私の方が年上なんだけど?」
春晏は訂正する。
ネクタイの色が理解できないわけではないだろう。
「じゃあ、さっきのキスしたことの慰謝料ってことで。
相殺してもらえる?」
少年はニコニコ笑顔で尋ねる。
許せるようなことをしたわけではないが、ここで問答になったら、新聞部のスクープにされてしまう。
そんな目立つことは御免だった。
「そういうことにしておきましょう」
春晏は妥協した。
どうせ二度と会うことはないだろう。
そう春晏は高をくくったのだ。
後々、後悔するような事態になることを古賀春晏17歳にはわからなかったのだ。