第七話


 パーティー会場を抜けると、すぐに昼に見た庭園にたどりついた。
 どうやら近道らしい。
 王宮の作りはよくわからないものの、華やかすぎる会場よりも落ち着く庭園だった。
 収穫祭も近い祝穂月になれば、夜も長い。
 百の星を従えるように欠けたところのない月が出ていた。
 こんな美しい夜に第二王子ティデットさまはお生まれになったのだろうか。
 本当に祝福されて生まれ落ちたのに違いない。
 葉を揺らして渡る風が心地よい。
 人工的ではない光の中のせいか、立ちこめる花の香りまで甘やかだった。
 菫色の瞳を細めて乙女は祝福されたような夜を堪能する。
「本当に夜の方が香るのね」
 レティシアは肺いっぱいまで息を吸いこんで、花の香りを味わう。
 メッセージカードの送り主は、どなたなのかしら?
 ぼんやりと考え事をしていたせいか。
 レティシアは反応に遅れた。
 優し気で穏やかで、艶やかな男性の声が
「よろしければ、毎夜、散策などいかがでしょうか?」
 身近で言うまで、気がつかなかった。
 レティシアは言葉を失った。
 百の星すらかすむ。
 月の神が地上に降りてきた。
 そう言われればうなずかずにはいられないほどの優美な青年が立っていたのだ。
 淡く白い月の光のような黄金色の髪はきららかで癖がなく、邪魔にならないように軽く三つ編みで結ばれていた。
 結ばれていたリボンは湖水を思いを起こさせるような青緑で、夜目でもその光沢から極上の絹だとわかる。
 一瞬、庭師と思えるほどの気取りのない恰好をしているが、そうではない品性が漂っていた。
 刺繍一つないシャツは、仕立てが良く、手触りも良さそうだった。
 日に焼けたことなどないほど白い肌は貴族たちの特権階級だけのものだ。
 レティシアの菫色の瞳が注目したのは、リボンと同じ色の右目ではない。
 確かに青緑の瞳は、領地の湖水を思い起こさせるようなしみじみとした美しさはあった。
 左目だ。
 王国の始祖であるロディアーヌさまと同じ異相。
 片色違いの瞳。
 黄金の左目。
 今宵の月のように淡いけれども、見違えることのできない美しい黄金色。
 社交界に出席しなさすぎたせいか、顔と名前が一致しない。
 王族に違いない、としかわからない。
「失礼しましたね。
 名前を名乗らずに求婚してしまうというのは」
 優美な青年は微笑みながら言った。
 ……求婚?
 レティシアは突然の展開に驚く。
 何をしても平均点以下のレッテルを貼られている令嬢なのだ。
 こんな場所にいて、宰相を輩出するリヴィエール侯爵令嬢だと気がつく人物はどれほどいるのだろうか。
 家族たちとは容姿からして雲泥の差があるだ。
 しかも、初めて会う男性だ。
 社交界デビューを一年前にしたのだから、その時に顔を合わせをしたかもしれない。
 けれども仮にも王族だ。
 正式に紹介されたのなら、忘れるはずがない。
「いくら知っているとはいえ、申し訳ありません。
 この機会がなければ貴女に二度と会えないと知っていましたから。
 パーティーが終われば、すぐにでも領地に帰られるつもりなのでしょう?」
 青年はレティシアの困惑に気がつきながら、言葉を続ける。
「……そうですが。
 どうしてそれを」
 レティシアの声が上擦ったものになる。
「先が視える、と言ったら信じてくれますか?」
 こともなげに月の神のごとく優美な青年は艶やかな声で言った。
 未来を。
 先見の力を持つ王族はただ一人。
 第二王子ティデットさまだけだ。
「ご病気はよろしいのですか?」
 レティシアは尋ねた。
 青年は弾かれたように笑った。
 そうしていると、尊き第二王子のようには見えなかった。
 一つばかり年上の男性がいるように見えた。
「あれは力を使う際の代償ですよ。
 父上や兄上に頼まれると断り切れませんからね。
 私にこの力がなければ、父は玉座に座ることができなかったでしょう。
 そのために生かされているようなものです。
 軽い散策ぐらいならできる程度には元気です。
 ご心配、ありがとうございます」
 穏やかな物腰でティデットさまは言う。
 それから、ほんの少しばかり片色違いの双眸を伏せて、ためいきをつく。
 レティシアは失礼なことをしてしまっただろうか。
 不安になる。
 ……身分がわからなかった時点で、充分に失礼な気がする。
 しかもティデットさまが主役のパーティーを抜け出したのだから。
 どういう処分が下るのだろうか。
 社交界に興味が薄すぎて、王族に対するマナーが良くわからない。
 レティシアは祈るような気持ちで時間が過ぎていくのを待つ。
「それにしても不用心ですね。
 独身女性が……既婚者でもあまり変わりがありませんが、夜更けに一人きりとは。
 どこかの部屋に連れこまれて、一夜の慰めものになってしまいますよ。
 あまり申し上げたくはないのですが……そういう輩が多いのです」
 ティデットさまは心配そうに言った。
 どうやら、夜会という席の特徴をわかっていない、と気がつかれたのだろう。
「ご忠告ありがとうございます。
 ですが、二度と社交の場に出ることはないのでお目に留まることはないでしょう」
 レティシアは、どうにか微笑みらしい表情を浮かべた。
 ティデットさまは神への敬虔をお持ちなだけではなく、奇跡の力を持つ『王子』という称号に奢ることなく、心優しい方なのだろう。
 レティシアは、ほっと一安心した。
「本当に無防備ですね。
 弟のクレイヴァルほどではありませんが、それなりに危険人物なのですが。
 貴女という花など簡単に手折れる、ということはご存じでしょうか?」
 百の星を従えてもなおかすまない月の神のように優美な青年に穏やかに尋ねられて
「え?」
 レティシアの心臓は跳ねた。
「私が貴女を手折ったところで誰も文句をつけないでしょうね。
 むしろ王族の義務を果たした、と周囲は喜んでくれるでしょう」
 美しい湖水のような青緑の瞳と月光のような黄金の瞳がレティシアを見つめる。
 ……手折る。
 その言葉が理解できなかったわけではない。
 子どもじみた恋愛物語であっても、最後のページには出てきた言葉だったからだ。
 いくら政から遠いところにいる末姫であっても、宰相を輩出し続けているリヴィエール侯爵家の娘なのだ。
 王族の義務は知っている。
 現国王が玉座に座るまでの半年間。
 王族たちは血で血を争う騒動を起こしたのだ。
 暗黒の期間で王族の数は激減した。
 その反省からか、王族たちは血統を残すことを義務としたのだ。
 ひとりでも多くの王族を生みだすためなら、どんな娘であっても覚悟をしなければならなかった。
 ましてや『王子』の称号を持つ王族に望まれたのなら、断るという権利はない。
 菫色の瞳を持つ乙女は、優し気に微笑む第二王子を見つめ続けた。
 目線を逸らしたのは青年の方が先だった。
「ご安心ください。
 そんな無粋なつもりをする気はありません。
 今宵の記念に、お好きなだけ、その花をお摘みください。
 ここの花は私のために用意された庭園ですから」
 ティデットさまは優しく、穏やかに言った。
「……眠れないのですか?」
 レティシアはメッセージカードを思い出す。
 あのメッセージカードに使われたインクも王子の右目と同じ湖水の思い起こさせるような美しい青緑だった。
「あまり眠るのが好きではないのですよ。
 眠るぐらいなら本を読んでいたいぐらいです」
 ティデットさまは微笑みながら言った。
「本がお好きなのですか?」
 レティシアは尋ねた。
 どういった本が好きなのだろうか。
 ネズミ姫と言われるぐらいに本が好きな乙女にとって気になるところだった。
 これ以降、親しくなる機会はないかもしれないが、何となく気がかかりになった。
「嫌いではありませんね。
 ここの花と同じですよ。
 好きでも嫌いでもない。
 あるいは、自分自身です。
 ……貴女のように美しい菫青石のような美しい双眸に生まれれば良かった、と思います」
 後悔しているような響きで告げる。
 黄金色の瞳は、こんなにも美しいのに。
 奇跡の力を振るって、王国に平穏をもたらしてきているのに。
「部屋まで送ります。
 私と一緒なら危険はありませんから」
 艶やかな声は穏やかに言った。
「申し訳ございません」
 レティシアはあわてて言った。
 世間知らずな姫君に映ったのだろう。
 事実、その通りだったから反論はできない。
「美しい貴婦人と話せましたから楽しい時間でした。
 退屈なパーティーに出るよりも良い体験でした。
 これ以上、遅くなると、宰相殿がご心配なさるでしょう。
 どうぞ、こちらです」
 ティデットさまは言うと、迷いなく歩き出した。
 名前も家名も名乗らなかったのに、レティシアのことを知っていたらしい。
 本当に先見で、未来を視たのかもしれない。
 男性としては線が細い印象を与えるが、その足取りは病魔に侵されているように見えなかった。
 迷路のような王城の人気のない道を歩いていく。
 これだけ華やかなパーティーが開かれている最中だというのに、すれ違う人がまったくいないのだ。
 警護している騎士や控えている女官はいるかもしれないけれども。
 やがて見覚えのある扉までやってきた。
「貴女の名誉に関わるので、これで失礼いたします」
 ティデットさまは優雅に頭を下げた。
 そのことにレティシアは血の気が引く思いをした。
 『王子』の称号を持つ王族に、それも先見の力を持つ『王子』にお辞儀をされてしまった。
 父である国王陛下以外に頭を下げる相手はいないはずだ。
 いくら社交の場に疎いレティシアとはいえ、それぐらいのマナーは知っている。
 こういう場合は、どうしたらいいのだろうか。
 乳母のマリーが傍にいてくれたなら。
 あるいは姉であるブリジットが傍にいてくれたなら。
 それとなく助言をしてくれただろう。
 成人した貴婦人らしい振る舞いを教えてくれただろう。
 レティシアはあたふたとしてしまう。
 それを見たティデットさまはにこやかに笑う。
「今日の記念に。
 お守りです」
 王族らしく腰まで伸ばした長い髪を三つ編みにして結んでいた青緑のリボンを解く。
 月光のようにきららかな黄金色の髪が癖ひとつなく宙に広がる。
 王城の煌びやかな灯燭の中でも、月の神のような美しい優美なお姿だと思った。
「このリボンが私のお気に入りだと知らない者は、この城にいませんからね。
 手折られそうになった時に見せれば、よほどのことがなければ貴女の身は安全でしょう」
 ティデットさまは湖水のように美しい青緑の絹のリボンを差し出した。
「そ、そんなたいそうな物はいただけません」
 レティシアは驚く。
 本当に身を案じてくれているのだろう。
 それが伝わってきた。
 だからこそ、受け取ってはいけないような気がしたのだ。
「この色のリボンはたくさん持っているのでご心配なく。
 ひとつぐらい無くなっても誰も気がつきません」
「そういうわけには……」
 レティシアは困り果てる。
 情けをかけられたわけではない。
 一夜の戯れに手折られたわけでもない。
 社交界のマナーを知らなさすぎるレティシアを思っての善意の行動だろう。
 わずかな時間しか言葉を交わしたことはなかったけれども、誠実な方だと思った。
「では、交換条件にしましょう。
 ひとつだけ、私のわがままに付き合っていただけませんか?」
 ティデットさまは言う。
「私にできることなら」
 レティシアはうなずいた。
 卑劣なことは言わないだろう、と信頼したからだった。
 乙女は王子を見上げる。
「たとえ、私の左目が黄金でなくても美しいと思ってくれますか?」
 ティデットさまは言った。
 それはあっけないほど、簡単な言葉だった。
 だからレティシアは自然と微笑むことができた。
「ええ、美しい色だと思います。
 領地で見る湖水のように慕わしく美しい青緑です」
 初めて右目を見た時の印象をレティシアはそのまま伝えた。
 ティデットさまはかみしめるように静かに微笑んだ。
「果報者ですね。
 では、それを想い出にしましょう。
 目を閉じる勇気が湧いてきました」
 青緑色のリボンをレティシアに握らせると、ティデットさまは踵を返して行ってしまった。
 長い廊下を迷いなく歩いていく。
 レティシアは手元にある青緑の極上の絹のリボンを見つめた。
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