季節代わりの夜

 刻限は薄夜。
 太陽の媛(ひめ)の光が消える時間。その領巾(ひれ)が、今日の終わりを眩しいほど照らしている。
 東の空には、とらえどころのない弟君がゆるゆると昇り始めていた。
 川面を染める麗しい影に、岸に立つ少女の面にかすかな笑みが広がる。
 咲きそろうが色はそろわぬ花の中にいてもなおのこと、その少女の姿はまぎれてしまうほど、淡く、ほのかだった。
 色なき風が渡れば、さわさわと揺れ。
 秋霖(あきさめ)が降れば、しおしおと頭をうなだれる。
 草が枯れはてた地にいても少女は目立つことはないだろう。
 真白な身に、青き単(ひとえ)を重ね、濃き薄き香色を取りそろえる。
 冬を待つ野のような色は、昼が一番長い季節の中で見るには、物足りない。
 景色にかき消されてしまいそうな少女を目ざとく見つけたのは、同じ年頃の少年・湧立(わきたち)。
 夏空よりも明らかな喜色を顔いっぱいに浮かべ、少年は少女に声をかけた。
 天からの声は雷鳴のように大きく響く。
 少女は中天の太陽を見上げるように、眩しそうに目を細め、振り仰ぐ。

「萱(かや)殿」
 名を呼ぶと、秋に咲く控えめな花のような色の瞳と宙で出会う。
 澄んだ瞳は一瞬きした後に、しみじみとした光を添える。
「お久しゅう」
 少女はゆるりと頭を下げた。
 艶麗、高雅、柔媚、どれにも当てはまらない、ただただ丁寧な礼。
 一つもそこなわずに、尽くそうとする礼は涼やか。その優しい仕草に、湧立の心に親しみやすい懐かしさがゆらりゆらりと浮かび上がる。目にすることができて喜ばしいと思う。変わらずにいてくれたことも嬉しいと思う。幸せだと強く強く感じる。これまで「不幸せ」だと、「不幸せだった」と知る。
 少女に並ぶように、少年は地上に降りた。
 身の丈は変わらぬから、向かい合えば透き通った瞳とも近い。
「いと久しく。と言わねばならぬことが、淋しい」
 正直な少年は、己の思うことをまっすぐに伝える。
 役目が異なれば、その本性も違う。少女とはすれ違うばかりの日々を送っていた。今年は早く目にすることができたが、来る年はもっと待たされるかもしれない。
 共にいられる時間は空を照らす姉弟よりも限られている。
「そうでございましょうか?」
 萱は湧立の気持ちにかまわずに、川面に視線を投げかける。それを追いかけるように、少年もまた川面を見る。
 朱に染める太陽の媛の領巾も今は通り過ぎて、川は鈍(にび)の静寂に包まれていた。
 凪の訪れだ。
 昼と夜の切り替わる瞬間にやってくる、間。心の奥に、表現のしようのない薄い影がするりと沈みこんでいくような時だった。
「我は淋しいと思うぞ。
 萱殿にもそう思って欲しいと願うのは、我が欲深であるからだろうか?」
 湧立は言った。
 幼子のかんしゃくのように、一緒にいたいという願いに心が強く乱れることもある。
 だが、己を捨ててまで、その情に添うことはできない。身が八つ裂きになれば、二度と会うことができなくなる。一時しか会えない今でも辛いのに、これより先の未来をすべて捨ててしまうことはできない。
 だから、せめて。少女に同じ思いを抱いて欲しいと思ってしまう。それすらも、我がままだと知っていても、言わずにはいられない。思う分だけ、思い返して欲しい。
「私にはわかりかねまする」
 拒絶には弱々しい調子で萱は言う。
 わからないから、わからない。素直に答えただけの深さのない言葉だった。
「萱殿と会えない日々は、千秋だ」
 少年は少女の袖を捕まえた。勢いよくつかんではみたものの、頼りない。
 瞳をのぞきこめるほど近くにいるというのに、遠い。
 まるで空高くから、地上をそよぐ草原を見下ろしているような気がしてくる。
「それでは……。毎日、お会いできますわね」
 秋草色の瞳が楽しそうな光を宿した。
「そうであったな。それは良い!
 慣れぬことを言うものではないな」
 少年は己の失敗に気がついて笑みをこぼした。
 一日が千秋であれば、良い。
 太陽の媛と月の尊(みこと)が顔を出す間に、千回も逢うことができる。
「本当に。
 慣れぬことはするものではありませんわ。
 かくいう私も……、慣れぬことをいたしました」
 萱は笑みを深くすると、やんわりと少年の手から逃れた。
 ひらりとひるがえった香色の袖がまだ熱を宿す風に乗る。湧立にとって泣きたくなるような、胸を突くような香りがする。
 秋とはそのようなものだと聞くが、それでも心が痛む。
 少年は言葉を見失う。
「この秋は、良い秋になりそうです」
 萱は川に敬意を示すように、右手を上げる。天から降る何かをつかむように、その手のひらがそっと握られる。
 湧立とは近くて遠い色の衣が、夜気に溶けていく。
 太陽の媛の下で見るには寂しい色。月の尊の下で見るには悲しい色。
 どちらの領分でもある夕暮れ時に見るのがふさわしい色だ。
 真白な手はひらひらと舞い散る葉のように、宙をほのかに照らしながら、元の位置におさまった。
「姉様が気を入れてらっしゃる」
 自分のことを語るよりも得意げに、萱は言う。
「ここも紅に染まる時節か」
 湧立は仰ぐ。五百箇(いおつ)の銀の鈴を覆い隠すほどの、葉が茂っている。
 夏草と同じ色をしているそれが変じるとき、湧立はここにはいない。
 それでも、錦といわれればそうであろう、と。綾羅といわれればそうであろう、と。思いをはせることはできた。
 艶やかな景色の中、やはり少女は頼りげなく揺れているのだろうか。
 この西方の山のさらに奥で、人知れずに。
「ええ。今年は姉様が、天の夫妻のために橋をお作りにならっしゃる。
 華やかにございましょう」
「そこまでとは。
 羨ましい限りだな」
 川一面が落葉で染まるとは、なかなか気前が良い。
 敷き詰められた紅葉の色の深さは、百花の園も気おされるだろう。
 花よりも華やかに、濃く染めぬかれた川に誰もがためいきをつくのだろう。
 見られないことを悔しいとは思わなかった。ただ少女と一緒に見られないということが心残りだと思った。
「一歳(ひととせ)は長かりましょう。
 私も何かして差し上げることができれば良いのですが、このような身の上でございます。
 ただ、空が澄むことを祈ることしかできませぬ」
 萱は静かに言う。
 月の出を待っていた虫たちの声にまぎれてしまうほど、小さな声だった。
 星に負けじと鳴く音は、金の鈴。
 涼しげだとは思うものの、今は黙っていて欲しいと思う。
「身から出た錆だと、我は思うぞ。
 聞きたがえた牽牛(ひこぼし)が悪かろうよ。人の子とは愚かよのう」
 湧立は言う。
「それでも、一歳も待つのです。
 愚かであっても、誠意がございましょう。
 愚かであっても、心がございましょう。
 何にもかえがたく美しいと、私は思うのです」
 尊い宝を上ぐときのように、役目を授かったときのように。
 深い憧れと真剣さでもって少女は語る。
「萱殿は牽牛の誠意をお褒めになるが、我の誠意は認めてはくれぬのは何故だ?」
 湧立は問う。
 一歳は短い時間ではない。
 恋しい人が遠ければ、なおのこと。
 牽牛が妻を待つように、湧立も萱と会える日を指折り数えて、待ち望んでいた。
 いつか、いつか。と。
 誰よりも早く会いたいと願い、何度も願い、くりかえし願った。一人の時間が長ければ長いほど、その心は離れた人を思う。会いたい、とそればかりを思う。
「誠意で、ございますか?」
 萱は大きく一瞬きした後、湧立を見た。
「こうも思っているのに、萱殿は情のないことばかりを口にする」
「情の薄いのは、性分ですもの」
 萱は言う。
 風に揺れる花薄(はなすすき)のように、さわさわと流れる。
 逆らうことなど知らぬように、受け流してしまう。
 世の冷たい風も、湧立の激しい思いも、何もかも知らぬ顔をして、流してしまう。
「月の御方に、昼を照らすのを頼むようなことでございましょう」
 無理なことだと少女は告げる。
 月影を探すように萱は川べりを進み始める。
 水面に落ちた影は、それ自体が宝であるように、きらきらと輝いていた。
 すでに世界は夜。魂が自由になる時間だ。
「我に諦めろと言うのも、無体なことだ。
 峰なる雲が高きところより、雨を落とすのを止めることなどできぬだろうに」
 少女を追い越さない程度の速度で、少年も歩き始める。
 色づく前の紅葉を通して、空が見える。
 天に座すのは真円の真十鏡(まそかがみ)、歩くには十分の明かりだった。
 つかず離れず歩く二人の影が肩をあわせるように並ぶ。
 己の影までが羨ましく思える。
「夏空は照るかと思えば、雷を落とす。
 思いもよらない。
 迷惑だとおっしゃる方もいっらしゃるでしょうに」
 非難するには優しすぎる声が言う。
「萱殿以外は存じていない」
 いないと断言はできないが、面と向かって言われたことはない。
 湧立は答えた。
「私が、いつ迷惑だと言いまして?」
「今、言ったではないか」
「天の河に波を立てる秋風に比べれば、どなたも迷惑ではございませんわ」
 好きにはなれない。と同じ季節のものに萱は眉をひそめる。
 どのような思い入れがあるというのか。湧立には測りかねる。
 夏の熱風がどれほど強くとも、川の水を干上がらせることができないように。
 他人の心の中は、わからない。
 わかろうと努力しても、わからないままで終わる。
「萱殿は、ずいぶんと牽牛をひいきなさる」
「湧立殿は、ずいぶんと月人壮士(つくひとをとこ)を気になさる。
 本当に不思議ですわね」
 少女は立ち止まる。
 ちょうど葉の天井が切れて、まっさらな光が降り注ぐ。
 枯野のような衣にも、真白な面にも、澄んだ秋草色の瞳にも。
 秋。
 一足早く訪れた。秋だ。
 湧立の季節が終わろうとしていた。季節の終わりは、新しい季節の始まり。線を引くように明らかなものではないが、それでも目に見えるときがある。耳に届くことがある。
 人の子にとって、今宵がそうであろう。目を覚ませば、夏は終わり、秋が始まったことに気づくだろう。
「我は萱殿と一緒にはいられぬからな。
 牽牛は次がめぐるまで、共にいられるだろう」
「月人壮士には、待ち人がいらっしゃいます。
 一歳待ち続けた女人が……」
「萱殿は、織姫になりたいのか?」
 湧立の問いに、萱は目を丸くした。それからゆるりと首を振って、微笑んだ。
「いいえ。姉様がどれほど麗しい橋を用意してくださっても、かささぎが手伝ってくれても。
 それでも、一歳は長いと感じまする。
 私は織女(たなばたつめ)ほど、立派ではございません。きっと泣き暮らすことでしょう」
 ぽつりぽつりと語る姿は儚く、月光を浴びてもなお消し消えそうだった。
 やがては失われてしまうような気がして、心の中に焦りが生じる。
「それはいかん。
 萱殿は笑っているのがよかろうよ」
「涙は似あいませんか?」
 秋に咲く花が控えめな色をまとうのは、露という涙を隠すためだろうか。
 澄んだ瞳は泣いてはいなかったが……泣いてはいなかったが、悲しい。涙が似合うから、涙をこぼして欲しくはない。秋草のように、人知れずに散ってしまうのではないのかと、恐怖を覚えた。
「見たことはないが、やはり笑っている姿がよいであろう。
 悲しんでいるのは我が辛い」
「では、笑っておりましょう。湧立殿の心を痛めるのは、よろしくありませんもの」
 萱は言った。
「泣くようなことがあるのか?
 ……我は助けにはならぬのか?」
 人知れずに泣くのだろうか。秋草が露を宿すように、ひそやかに泣くのだろうか。
 それを自分は助けることはできないのだろうか。
 誰よりも知っているつもりだったから、涙を見たことがないという事実が苦い。
「泣くようなことは、今はございません」
「あるのだな」
「虫ですら嘆く秋でございます。誰も彼もが泣くのでしょう」
 歌うように萱は言う。
 秋の香りがする音色が湧立の胸を満たす。美しいと陶酔して、聞き流してしまいそうになる。
 それでも、大切な少女の言葉だ。聞き落とすことなどできなかった。
「萱殿!」
 湧立はその細い肩をとらえる。
 控えめに咲く花のような色の瞳が自分を見つめる。
「今は、悲しいことも、不安なこともありません」
 萱は呟くように言った。
「いつ、悲しくなるのだ?」
「聞いてどうなさいます?」
 澄んだ瞳の純度が高まっていく。
 空に浮かんだ鏡よりも、傍を流れる鏡よりも、正確な鏡が湧立を見つめる。
 どんな虚飾も役には立たないとわかっているから、湧立は真っ直ぐに告げる。
「役に立ちたいと思うている」
「湧立殿は、淋しいとおっしゃいました。
 私は淋しいとは思いません。
 ……悲しいと思います」
 萱は微笑みながら言った。
 湧立は細い体をかき抱いた。無理に作った微笑で、これ以上の言葉を紡ぐ姿を見るのが嫌だった。
 萱は湧立が求めていた答えをくれた。けれども、欲しいと思った答えとは、ずいぶんと違った。その差が、これまで少女の流した涙の分、悲しかった。
 秋の香りが胸いっぱいに広がる。湧立が去らなければならない季節の香りだった。
「一歳は本当に長いです」
 耳元で聞こえた声は、ためいきに良く似ていた。
 少年は答える代わりに、少女の体を強く抱きしめた。抱えこんでいれば、二度と離さなくても良いような気がした。連理の榊のように、二つで一つのものになれるような気がした。

 奇跡はめったに起きないから奇跡と呼ばれ、祝福は選ばれたものの身にしか降りないから祝福と呼ぶ。
 牽牛と織姫が一年一度の再会しか許されないように、夏空に浮かぶ雲と秋空に揺れる薄(すすき)にはすれ違いしか許されない。
 季節代わりの夜がふけていく。

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