#03.self-confessed liar

 灰色がかった落ち着いた緑色のカーテン。
 その部屋には、常にその色のカーテンがかかっていた。定期的にデザインが変更されるが、色のほうまでは変更されない。6桁の数字でいうならば「#99cc99」だ。この色だと視覚的に認識する範囲にとどまっている。私の部屋のカーテンはチューリップの花の色であったり、桜の花であったり、今日のランドセル並みに変化するのとは、対極にいる。この緑のカーテンを見ていると、この家に帰ってきたのだと思うのは、この家にいた時間の長さの分だけの記憶の積み重ねによるものだろう。数年前から部屋の主が不在の時間が延びていたのだが、珍しいことが起きるものだ。
 時刻は日付が変わったばかりの0時21分。
 煌々としているのは天井から釣り下がっているシーリングライトだけではない。機能的なデスクの上に載っているモニターもついていた。作業中なのか、タワーと呼ばれる本体からガリガリと機械的な音が続いていた。
 部屋の主はその対角線沿いにあるクローゼットに、頭を突っ込んでいた。探し物でもしているのだろう。

「結婚することにした」

 私の言葉に彼は動作を止めた。
 上着のポケットから携帯電話を取り出すと、その画面を見る。
「それ、親に言うなよ。
 結婚式場のパンフレットを並べられるから」
 《黄昏》は私を見て、肩をすくめる。彼の耳には銀の星のようなピアスが輝いていた。今日は休日だった。
「そこまで、厄介払いをしたかったとは知らなかった」
 無知というのは恐ろしいもので、盲目的にいうのは罪である。
「逆だ。
 家に、独身の息子がふらふらとしているのが落ち着かないんだよ」
 彼は元の作業に戻った。
 私は静かにドアを閉め、一歩だけ進む。いつまでもドアを開けたまま会話をするのもおかしく、このまま立ち去るのは納得がいかない。《黄昏》の話は謎が多い。
「ちょうど良いと大安吉日を選んでくるだろうな」
「……」
 私は《黄昏》の言葉を頭の中で反芻する。彼が口癖の『意味不明』だった。
「鈍いな。家にいる息子と娘を手放さずに、なおかつ年頃の子どもをまとめるのに、ちょうど良い方法があるだろう」
「……なるほど。
 そういう誤解を生むのか」
 私の疑問が一つ、氷解した。
「特定の女性を家に連れてくる気配もない。
 暇さえあれば、部屋にこもってインターネット。
 普段は、一人暮らし。
 ニュースに流れられたら、困るんだろ」
 《黄昏》は他人のことのように自分のことを語る。それが《黄昏》だといえば《黄昏》だ。客観視しているようで、自虐的だ。少なくとも、そのような振る舞いをする。それで得をすることがあるのだろうか。他人という生き物は、人当たりがよく、情が深く、温厚である隣人を好む。
 その点、私などは及第点どころか、失格している。そのことに絶望するのは飽きがきているので、絶望することはない。
「私はともかくとして《黄昏》は、結婚相手に困らなさそうだが……カノジョとは結婚しないのか?」
 私は質問をした。
 ピタッと《黄昏》の動作が停止した。私には読みきれない表情をした。何が一番、近いのだろうか。困惑、途惑い……何かが違う。
 私は質問してはいけないことを質問してしまったようだ。
 恋愛というものは不確定要素が多く、順調に事が進まないときのほうが多い。と聞く。一過性のこともあれば、決別に到ることもある。《黄昏》とそのカノジョも、谷に落ち込んでしまっているのかもしれない。
 ぶしつけな質問であった。
「結婚は一度きりだと決めてる」
 クローゼットからネクタイを数本、取り出すと、彼は薄く微笑んだ。
 短く切りそろえられた爪がクローゼットを閉じる。パタン、と音がした。
「一生を誓うんだ。慎重にもなるってもんだ」
 《黄昏》はネクタイを作業用のテーブルの上に置くと、パソコンに向かう。
 モニターを覗き込んで、キーボードをいくつかタッチする。私よりも速い速度で、文字が入力されていく。
 やがて耳慣れた音楽がスピーカーから流れてきた。最近、《黄昏》がプレイしているオンラインゲームのBGMだった。
 私は、彼の背中越しにそれを見た。
 《黄昏》はネットゲームを開始した。カタカタとキーボードが叩かれる。画面はスムーズに動き、自分がやっていたときとは大違いに、効率よく進んでいく。
「《黄昏》は嘘をつかないのか?」
 私は訊いた。今日はエイプリルフールだ。嘘をついても許される日だ。浮かれ騒いで、誰もが他愛のない嘘をつくお祭りだ。
 キーボードが叩く音がやんだ。

「嘘ばかりついている人間には、関係ない。ってことさ」

「《黄昏》は嘘つきなのか?」
「嘘に罪悪感を感じないから、嘘つきなんじゃねーの?」
 《黄昏》はこちらを向いて……それから口元だけで笑った。
「なるほど」
 私はうなずいた。
 ささやかな嘘にだまされてもらえなかったのは残念だが、仕方がない。嘘つきに嘘をついたところで、だまされるわけがない。嘘つきとは、嘘のプロフェッショナルなのだ。
「では、どんな嘘をつこう」
 せっかくのエイプリルフールだが、一人目にして早くも落第点をもらってしまった。私は嘘をつく才能が持っていないのかもしれない。目の前に嘘をつくのを苦にしていない人物がいるという事実が、この世の中の不公平さの縮図のように思えてきた。
「《shi》の言葉だったら、うちの親はだまされてくれるんじゃないの?
 単純だから」
「《黄昏》」
「褒めてる。褒めてるんだよ。
 実に善良な人間たちだから、4月馬鹿も楽しんでくれるんだろ」
「それなら良いが……。
 実の両親だろう。言葉遣いは気をつけたほうが良いと思う」
「これが親愛の情ってヤツだよ。
 俺が生まれたときから、飽きずに親子をやってるんだ。
 あっちも慣れてるさ」
「……私とは違うのだな」
「それが格別悪いとは思わねーな。
 全部が一緒だったから気持ち悪いだろう」
 サバサバとした表情で《黄昏》は言う。
 気負いも、真剣さも、気安さも……ない。無味無臭の水を飲みこんだような感覚があるだけだ。水道水のカルキ臭さも、地下水の甘さも、何も持たない純粋な「水」の味。奇妙さを、違和感を感知する。
 私はかける言葉を失った。《黄昏》の言葉には一欠けらの真実があるように思えたからだ。反発も納得もなかった。私は話すことなど持たない面白みのない人間なのだから、黙っていた。《黄昏》も何も話さなかった。
 沈黙をキーボードの音が埋めていく。
 心地よいと感じた。聞きなれた音だかなのかもしれない。
 この部屋の、この光景は何年経っても変わっていない。時間というのは主観の前では、脆弱なものなのだろう。こうしていると、この家に来たばかりの記憶と重なっていく。
 《黄昏》は大学生で、そのとき流行していたネットワークゲームを《グングニル》としていた。この部屋に入ると、《黄昏》はパソコンの前に座って、何らかの作業をしていた。私は部屋の片隅で、自分を思い出してもらえるまで座り込んでいた。
「明日。……家に帰ろうと思う」
 私は自分から声をかけた。
「俺は、明日は入社式だ」
 風変わりの返事が返ってきた。《黄昏》も一人暮らしをしている家に帰るということだろうか。
 しかし、《黄昏》は新入社員ではない。入社式というものは、新入社員が受けるセレモニーだろう。
 私の謎を解くように《黄昏》が続ける。
「歓迎会をするんだよ、新卒がいるから。
 だから、帰りは……二次会は出ないつもりだから、10時ぐらいだな」
「会社勤めは大変だな」
 私にも『付き合い』というものがあるが、周囲の人々の温情で、そういったことは不参加であっても、文句を言われたりはしない。また、強制参加を命じられることもない。恵まれた職場環境だと思う。
「サンドイッチが食べたい」
 《黄昏》が唐突に言った。
 夜は一緒に食べる、という意味だろう。かつて『一人で食べる食事は味気がない』と言っていた。それは私も同感なので、誰かのために料理を作るのは苦ではない。一人分も、二人分も、材料費に差はほとんど出ない。
「わかった」
 私は携帯電話を取り出し、メモを取る。
 料理名と購入予定の食材を打ち込み、アラームもセットする。
 『22時 サンドイッチ』
 アラーム音は『天体観測』にしておこう。この曲を聴けば《黄昏》を連想する。彼はこの曲が好きなのだ。それを私は知っている。
「それ持って、花見に行こう。
 満開だって話だからな」
 《黄昏》は提案した。
 私は昼、ダイニングでそんな話題が出ていたことを思い出す。
 ソメイヨシノの満開なら何度も見た。桜を植える趣味の家庭が多いのか、この家の近所はどこを見ても桜だらけなのだ。わざわざ自然公園まで足を運ばなくても、桜は見ることができる。ライトアップが趣味の家もあるため、夜桜も堪能できる。
「わかった」
 私はうなずいた。

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