#07.The curtain falls.

 私の最たる悲劇は私が私であると言うことにつきるのではないだろうか。断言するのも、実に気まずい心境ではあるが私はいわゆる不幸な星の下に生まれた……らしい。こういうことは主観的な要素で語るべきだが、あいにくと私の中では主観というものがひどく薄い。それを軽薄と見るか、それを薄倖と見るかはやはり客観的なものである。
 そもそも私は私であるということを確立するのに他者の介入を必要とする。存在というものは主観であるよりも客観であることに、もたれかかっている事柄なのだけれども、それを痛感する者は少ないだろう。何故なら、人間は「人の間」と書くように人と人の間に生きる生き物なのだ。自己と他者と区別しながら、緩やかに穏やかに時に苛烈に共存している。世間一般の人間は他者を散漫に、あるいは妄信的に求めることは、とても少ない。生きていく上で他者が常に存在し、それゆえに自己も存在していると確認できるからである。
 私は……。

+++

 携帯電話が鳴った。私は通話ボタンを押し、携帯電話を左耳に当てる。薄型の携帯電話は肩に挟むと不自然な体勢になるために、両手を添える。
――珍しいな。一回目で出るなんて
 鮮明な声がする。ノイズが混じっていない。だから目の前に彼が……《黄昏》が存在しないということが不思議に思えた。
 電話がかかってきたのだから程近い座標に彼が存在し得ないのは、理解できるのだが……共有している今は何なのだろうか。
――いつもそうだと、助かるんだけどな
「迷惑をかける」
 私は言った。
 自己は他者によってしか確立しない。私は《黄昏》という他者によって私として象られる。それは仕合せなのだろうが幸せなのだろうか。
 私という悲劇が所詮「悲劇」なのは、どこかに演じているという意識、それらは詰めていけば他者の介入を常に、強く求めているという、世間の基準から考えると異常なのものがあるからなのだろう。
――まあ、ほどほどならいいんじゃないか?
「では、これからもほどほどに迷惑をかけようと思う」
――意味不明
 《黄昏》の声が笑いを含んでいるように、私の耳には感じ取れた。おそらく彼は機嫌が良いのだろう。
――この時間に電話に出るってことは、今日は暇なんだろう?
「私の休日に当たる」
――思ったよりも仕事が早く終わりそうなんだ。
  晩メシおごってやるよ
「気前がいいな。
 給料日は遠かったと記憶しているが」
――封切りの映画があるから見ようと思ってさ。
  仕事はけてからだと、レイトショーになるんだよ
「遅いな」
 最終上映だと見終わるころには23時を過ぎている。最寄の映画館であれば終電前には帰宅できるが、一般的には遅すぎる時間だ。
――独りで見るのもどうかと思って誘っているわけだ
「DVDのレンタルを待てばいい。
 あるいは……早ければ、明日にも気の利いた手合いがネットにアップするだろう」
 アングラ。非合法。アンダーグラウンドというほど陰にこもっているものではない。
 強大なマーケティングにのし上がった会員制の動画投稿サイトは、その手のものが実に陽気に、軽快にアップロードされるのだ。そこでは罪の意識が薄い。もちろん削除も早いがインターネットの伝播速度はもっと速い。
 掲示板を介して、あるいは専用のアップローダーで、あるいはボイスチャットの機能を利用して、圧縮されたそれらの動画は鼠算でコピーされていく。
――映画館で見たいんだよ
「なるほどロマンだな」
 私はうなずいた。電話の先にいる《黄昏》には私の動作は見えないが、慣性というものだ。スイッチのようにon、offができない。私にはできない。
――家で見るのと、映画館で見るのは違うだろ?
 《黄昏》は窮屈であったり、不便であったりすることをしたがる。私にとって、それこそが「意味不明」な行動だ。全ての事象に対して、意味や意義をいちいち見出すのも手間がかかり面倒な作業だが、《黄昏》の逸脱振りには首を傾げてしまう。
「違うが……、フィルムに変化はない。
 撮影は終了されているわけだから、変化の点は時間経過だけになる。
 些細なことだ」
――フィルムは、な。
  でも、俺はもっと違う。
  《shi》が想像するよりも大きいんだよ
「そうか」
 《黄昏》がそういうのならそうなのであろう。主観なのだから、他者である私が決めることではない。
――じゃあ、いつもの場所で。
  先にメシを食べるから、食べたいものを決めておけよ
「……私はまだ行くと言ってはいないが」
――電話を切れなかったんだから、俺の勝ちだろ
「……」
――今日は肌寒いから長袖を持ってきたほうがいいぞ。
  じゃあな
「勝手だな」
 私の口から言葉がもれた。嫌味だったのか、純粋な感想だったのか。自分の耳で聴いても、理解のできない響きを有していた。
――前から、俺は勝手だ
 《黄昏》は肯定した。それから電話が切れた。
 私は携帯電話の液晶画面を見つめる。とりあえず……手が疲れた。携帯電話は不便だと感じた。
 再び、私は曖昧なものになる。x軸から見れば私は他者と関係を持っているが、現在は接点がない。1分前までの私は《黄昏》という他者によって照らされていたが、今は輪郭を持たない。ただ、そう……ただ未来にある約束が、私という悲劇を続けさせるのだ。終演は先のようだ。
 私は携帯電話を閉じて、充電器に置く。ガッチャっと音を立てて、精密機械はホルダーに収まる。充電中を表すランプが点灯する。

+++

 その日見た映画は現代のよくある景色を美化したフィルムだった。独りで見るには気恥ずかしくなるようなストーリーともいえる。現実はこれほど美しくはないし、終わりはない。私よりも不幸な人は、おそらく幸福と呼べなくもない状態になり、フィルムは終わった。
 私は終劇を迎えられた登場人物を羨ましく思った。彼は最後まで演じきることができ、二度と演じることはないのだから。
 焼かれたフィルムは何度も同じ軌跡をなぞるけれども、彼は同じ軌跡を、軌跡の先にあるものを、演じる必要はないのだ。
 この感想は《黄昏》には言わなかった。

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