第一章

 時は群雄割拠。
 大陸の覇権をかけて士は立ち上がる。


 ここチョウリョウは猛勇で知られるフェイ・シユウが本拠地。
 国と呼んでも差支えがないほどの広大な領地は、シユウの代で築き上げられたものだ。
 けれどもシユウは未だ王で非ざれば、治める地もまたクニと呼ばれる。
 偉大なる皇帝が治められると地の一つ、フェイ・シユウが領地 チョウリョウ。
 そして、その都 チョウリョウ。
 ここには堅固な城がある。
 シユウの名をとり、シキョ城と呼ばれる。
 シキョ城には忠臣と共にシユウの妻子が、シユウの凱旋を待っていた。



 シキョ城、屋上。
 十になったかならないか、まだ幼い子どもが雨風に晒されて色褪せた城壁の上に座っていた。
 安楽椅子のように、不安定極まりのない場所でくつろいでいた。ここから落ちたら一たまりもないというのに、子どもはニコニコ笑顔である。
 全く知らない人が見たら目をこすってマジマジと見たことであろう。
 少し文才がある者がいたとすれば、天女と思ったやも知れない。
 あいにくとこの子どもを見る者はいなかった。
 まだまだ幼いと言うのにその見目かたちは後宮の美姫も恨むというもの。
 子どもがまとう贅沢な朱色を基調にした衣は、要所に金の縫い取りがさりげなく施されており、風になびく様子は軽やかながらしっとりとしていて、上質な絹であることが見て取れる。
 肩に掛かる程度に切り揃えられた明るい茶色の髪には、この地に決して咲くことはない南国色の花が飾られている。
 明るい瞳が見据えるのは、この地の果て。
 子どもは待っていた。
 キラリ。
 陽光を弾く。
 それは現れた。
 その数、千を大きく上回る騎馬。
 悠然と翻る旗には一字『飛』。
 この城の主の姓が青空の下に続く。
 馬上に兄たちの姿を見つけると、子どもはパッと顔を輝かせて立ち上がる。
 小鳥のようにヒラリと踵を返して走り出す。
 子どもの名はフェイ・ホウチョウ。
 シユウの末子にして、まだ十歳になったばかりのこのクニ唯一の姫である。


 ホウチョウは何食わぬ顔をして自分の部屋に戻った。
「姫!
 どこにいらしたのですか?」
 二つばかり年上の侍女兼話し相手のメイワが言った。
 ずいぶんとホウチョウを探し回った後らしく、白い額には汗が浮かんでいる。
「散歩。
 気分転換したくって」
 ホウチョウは無邪気に言った。
「でしたら、私たちをお連れ下さい!
 供もつけずに出歩くなんて……。
 姫の身に何かあったら」
 メイワは泣きそうな顔で言う。
「何かあるわけないじゃない。
 ここはこの世で一番安全な所なのでしょう?」
「ですが、万が一と言うこともございます」
「うーん。
 でも一人になりたい気分だったのよね。
 心配かけてごめんなさい。
 これからは気をつけるわ」
「約束ですよ」
「ええ」
 ホウチョウは頷いた。
 トントン。
 扉が叩かれる。
「姫」
 メイワは衝立の向こうにホウチョウを追いやる。
 しぶしぶ少女は衝立の陰に隠れる。
 こういう礼法にかなった女性らしいことが、チョウリョウの姫は大っ嫌いだった。
 職務に忠実な侍女は、ホウチョウが隠れたのを確認してから扉を開けた。
「失礼いたします。
 殿がご帰還された旨、伝えに参りました。
 今宵は宴を開くので、胡蝶の君にもご出席なさるようにと武烈様からご伝言を」
 使者は最後まで口上を延べることはできなかった。
「ホントに?」
 喜色を隠すことなく少女は、衝立から身を乗り出した。
 メイワは渋い顔をし、使者は苦笑した。
「はい。
 確かにご伝言を承って参りました」
 使者はハキハキと答える。
「烈兄ってば、気が利いてるわ。
 珍しいこともあるものね。
 明日は雪かしら?」
 ホウチョウは言った。
「姫!」
 メイワは悲鳴のような声を上げた。


 勝ち戦の宴は盛大。
 チョウリョウの主、シユウと二人の息子。
 シユウに良く似た雰囲気の若武者が武烈の君こと、コウレツ。
 それよりも線が細く大人しい印象の少年が、弟のホウスウ。
 そして、居並ぶ忠臣たち。
 宴は早いうちに無礼講になってしまったのだろう。
 姫らしい身支度を強制されたホウチョウが宴に来た頃には、広間には酔漢ばかりになっていた。
「こちらに来い、我が姫よ」
 父である人に呼ばれ、ホウチョウは嬉しくなって小走りに近づく。
「お帰りなさい」
 腕を投げかけて、めいっぱい抱きつく。
 シユウは笑いながら、愛娘を抱きとめる。
 この父は娘の自由な気風を好んでいたので、はしたないことだと目くじらを立てることはない。
 広間にさざめきが起こる。
 滅多に表に出ることはない胡蝶の君の美貌は、内外でも有名だ。
 それを目の当たりにした若い臣たちは、降嫁の可能性を知るだけにざわついたのだ。
「満ちる月よりも
 人を惑わすのは
 少しかけた
 十六の月」
 シユウの左隣で杯を手にしていた次子ホウスウは、その様子を皮肉って低く吟ずる。
 あいかわらずよ、とシユウは学者肌の息子に苦笑する。
 父の膝の上で、からかわれていることだけは理解したホウチョウが七つ違いの兄を睨む。
「十六夜姫のご機嫌を損ねてしまったようだ」
 さして気にした風でもなく、飄々としたままホウスウは言う。
「俺の胡蝶!
 遅かったな、土産が待ちくたびれちまったぜ」
 明るく割って入ったのは長子のコウレツ。
「烈兄!」
 ホウチョウは嬉しそうに笑った。
「元気してたか?」
「うん!」
「そっかぁ。
 今日は土産を連れてきたんだぜ!」
 コウレツは得意げに笑う。
「連れてきた?」
 ホウチョウは言い回しが気になって、訊き返した。
「ああ、そうだ。
 おい!」
 コウレツは柱の方に声を投げかける。
 柱の脇に所在なげに立っていた少年が、はっと顔を強張らせてゆっくりと歩いてきた。
 ホウチョウはシゲシゲと少年を見た。
 少女の価値観からすれば、えらく陰気な色彩である青鈍色の衣をまとった少年は、ホウチョウよりも小柄で、同じ年頃と言ったところか。
 樫色のサラサラとした髪を襟元で、柳色の布でくくっている。
 身分を明かすような玉佩など一切帯びていないが、育ちが卑しからぬことは一目で分かった。
 歩き方が違うのだ。
 少年はシユウの前で立ち止まる。
 ホウチョウと一瞬合った瞳は珍しい色をしていた。
 落ち着いた、これ以上なく澄んだ瞳は、緑みの強い茶色。
 綺麗な色だとホウチョウが思っていると、少年は叩頭礼をした。
 少女の明るい大きな瞳はさらに大きく見開かれる。
 叩頭礼は礼の中で最上級。
 例えば、偉大なる皇帝陛下に拝謁するときは三跪九叩頭する。
 それほど格式のある代物なのだ。
 一地方の領主の娘であるホウチョウにとって、そうそう出会うものではない。
 驚きのあまり父と兄たちを見遣れば、当然のような顔をして飲んでいた。
 一方、床に額づいている少年はまるで石のようにピクリとも動かない。
「気に入ったか?」
 長兄が問う。
「遊び相手にちょうど良かろう」
 次兄が笑う。
 ホウチョウは少年を見た。
 兄の言う土産とはこの少年のことであろうか。
「名乗りな!」
 武烈は笑いながら言う。
「私は、シ・ソウヨウと申します。
 お初にお目にかかりまして、恐悦至極にございます」
 そう言った声は兄たちのものと違い、子どもらしく澄んでいた。
 ホウチョウは物のついでのように思い出す。
 父たちが遠征に向かったのは、シキボという地ではなかったか、と。
 そこを治める者たちはシと言う姓を持つ、と。
 とすればこの少年はシ一族が差し出した人質というところか。
 ありふれた話だけに、ホウチョウは何の感慨もなく受け入れた。
 少女の興味は少年の所有権にあった。
 土産と言った以上、この少年はホウチョウの物なのだ。
 新しい遊び相手に、少女は笑った。



 これがフェイ・ホウチョウとシ・ソウヨウの出会いだった。
 二人は未だ幼く、無力であった。
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