月と風
once upon a time.


 秀麗な顔立ちの若者が広い道を歩いていた。
 廊下と呼ぶにはいささか広すぎ、広間と呼ぶのには細長すぎるその空間は「振り返りの間」と密かに呼ばれている。
 塵一つ落ちていない乳白色の床は、ぼんやりと若者を映す。
 若者は、美しかった。
 誰が見ても文句のつけどころがないほどに、完璧なまでに造作が整っていた。
 瞳を伏せがちに歩くその姿は、珠玉。
 それもそのはず、若者は「小さき神」の長。
 「神」に最も近い、「小さき神」なのだ。
 若者は、その顔を歪ませた。
 それに驚くように、空気が振動する。
 まるで、若者の機嫌を取ろうとするかのように、風が起こる。
 月の光を紡いで織り上げたような白い衣を翻し、足にまとわりつく長い裾を邪魔そうに、駆け出した。
 若者の月明色の髪が風を彩る。
 風は勿体ないほどの幸運に、狂喜する。
 月の光の雫色のそれは、もつれることなく、絡むことはなく、宙を駆けていく。
 息を切らしながら、若者は「振り返りの間」を通り過ぎ、その奥の「佇みの間」にたどり着く。
「佇みの間」には、女神が一柱、立っていた。
 彼女もまた、「小さき神」の一柱。
 一番最後に地上に馴染んだことと、若い姿形ゆえに「小さき神」の末妹として扱われるが、創造主たちが彼女を創ったのは、世界の初めの頃である。
 渡る風が揺らす葉のような、吸い込まれるような瞳が若者を見た。
「ブラン」
 彼女は空気を振動させて、若者の名を構築した。
 名を呼ばれるということの喜びを再確認させられる。
 「小さき神」は、便利さのあまり光を言葉の代わりにする。
 一定の周期で繰り返される光の強弱で、意思の疎通を図るのだ。
 このやり方を末妹は快く思っていない。
 それゆえに、彼女は人の子のように音を使う。
「呼びましたか?
 私の可愛いレラ・ピリカ」
 「小さき神」の長は、末妹に習って言の葉を紡いだ。
「呼んだのかもしれないし、呼んでいないのかもしれない」
 歌うようにレラ・ピリカは言った。
 風が女神の髪を揺らす。
 一瞬の光の煌きを表す色の髪に飾られた細いリボンやビーズが微かな音色を奏でる。
「偉大なるブラン。
 どうか私に教えて。
 どうして、私には導く子がいないの?」
 女神の声に哀しみが混じる。
 それに驚愕した風が打ち震える。
 レラ・ピリカの衣をはためかせ、ブランの髪を弄る。
 さしもの風に、ブランは瞳を開いた。
 黄金に劣る白銀の瞳が、風を見た。
 「小さき神」の長の前だというのに、恐慌状態の風は収まろうとしない。

 (収まりなさい)

 ブランは光でもって、風に命を下した。

 パタリ

 風は止んだ。
「いつか、あなたにも導く子が現れます」
 ブランは言った。
「何人もの人の子を導いた神がいるというのに、私はまだ一人も導いたことがないのは……」
 彼女の瞳が、床を見つめる。
 小さなつむじ風が起こる。
 ブランの制止が利かないほどに、風はこの女神の哀しみが耐え切れない。
 何故なら、女神はレラ・ピリカと名づけられたモノ。
 創造主たちの古き言葉で『良き風』を意味する。
 この地に吹く風たちが愛して止まない存在なのだ。
 ブランは密かにためいきをこぼした。
 創造主たちの考えは時として「小さき神」である身には手が余る。
 何ゆえ、創造主たちはいといけな存在を生み出したのだろうか。
 この地に住まうモノたちにとって、なくてはならない風を司る「小さな神」をこのように繊細な感情を抱く少女にしたのであろうか。
 女神が心を揺らすたびに、この地は耐え切れないといわんばかりに鳴動する。
 ブランの制止が意味を持たないほどに。
 そして、今ひとつ。
 創造主たちの深遠たる考えがわからない。
「いつか、必ず。
 このブランの名を持って、約しましょう」
 ブランの声が「佇みの間」に響く。
「あなたの導く子は現れることでしょう」
「……それは、この世界が壊れてしまうとき?」
 その声は、泣いていた。
 若い女神は、驚くほど永い時を渡っている。
 それは「神」にも、ブランにも等しいほどの。
 誰よりも真実に近い場所に立っていたからこその言葉であった。
「私の可愛いレラ・ピリカ」
 ブランは呼んだ。
 小さな小さな末妹は、嘘を許さない。
「いいえ、世界はまだ壊れません。
 創造主たちは、まだ救いを残しているのです」
 痛みに耐えかねるように、ブランは瞳を伏せた。
 世界の破滅は近い。
 予定されていた未来だ。
 気の遠くなるほど昔に定められていた終末。
 創造主たちがこの世界から離れていくとき、ブランにみな頼んだものだ。
 いつか、必ずやって来る世界の終わりに、最後の希望。
「ブラン。
 私はこの世界が好きよ。
 この気持ちがたとえ作られたものだとしても……大好き。
 失われてしまうぐらいなら、私が消えてなくなった方がマシなの」
 渡る風が揺らした葉に雫が宿る。
「ええ、知っていますよ。
 あなたが誰よりもこの世界を愛していることは、このブランがよく知っています。
 私の可愛いレラ・ピリカ。
 どうか、泣かないで下さい。
 あなたの涙は、辛い」
 ブランは手を伸ばし、すべらかな頬を撫でた。
 風は嵐のように荒れ狂い、大地は揺れる。
 炎の柱が天を焦がし、川が逆流する。
 世界の全てが女神の哀しみを「辛い」と叫んでいる。
 自制心が強いブランには、そこまで感情をあらわにすることができない。
 高い気位がそれを良しとしない。
「ブラン。
 望んではいけないことなのかしら。
 世界の終末が来て欲しくない。
 でも、導く子が欲しい。
 そんなわがまま」
「あなたの願いは全て聞き入れて差し上げましょう。
 私の可愛いレラ・ピリカ。
 世界は輝く明日を手に入れることでしょう。
 そして、あなたにも導く子を。
 あなたが思うよりも、ずっと運命と言うのは美しいものなのですよ」
 幼子に言い聞かせるように、ブランは優しく言った。
「やがて、まだ眠る小さな……希望が目覚めるはずです」
 ブランはささやいた。
 真実の一葉を。
 女神は「小さき神」の長を見た。
「大丈夫です」
 長の言葉に、女神はうなずいた。
 そして、微笑んだ。

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