この気持ちにつける名前をまだ知らない

 暗闇がぼんやりと晴れていく。燭台に火が灯されていく。
「旦那様、旦那様、起きてください!」
 明るい声が目覚めを誘う。
「起きてください! 今日も素敵な月夜ですよ」
 カーテンが開けられる音がした。室内に大の月の光が差しこむ。眩しさに瞬きをする。
「もう少し優しく起こせないのか?」
 エミールは半身を起す。
「だって、こんな素敵な月夜なんですよ」
 窓辺に立つ小柄な少女が言った。長い黒髪をシニョンにまとめて、濃紺のメイド服に身を包んでいる姿が月光で見て取れる。名前はティカ。寝起きの悪いエミールを起こすためにいるようなメイドだった。
「今日は大の月の満月なんですよ!」
 ティカの黒い瞳がキラキラと輝く。
 おおよそ3年に1度、巡ってくる大の月の満月がテラス窓をはみ出さんばかりの勢いで輝いていた。普段の小の月に比べれば天と地の差がある光量だった。
「見れば分かる」
 青年は少女の言葉を遮るように言った。
「お祭りですね。早く行かないと屋台とか閉まっちゃいますよ」
 少女は何でも楽しそうに言うから、本当に楽しそうに思えてしまう。お祭りなんて勘弁して欲しい。人混みにもまれて、衛生面で問題がありそうな飲食物を食べるのが楽しいとは思えない。
「お祭りに行きましょう! 旦那様は運動不足ですよ。顔色だって悪いし、眉に皺が寄りっぱなしだし。そんなんじゃ女性にモテませんよ。せっかく元は良いんですから、損しています!」
 ティカはメイドという役職を超えずけずけと言う。他所の屋敷なら解雇されてもおかしくはない。首にしない自分が意外なぐらいだ。
「支度をする」
 根負けしてエミールは言った。
「はい、分かりました。お手伝いは?」
「いい」
「じゃあ、私も着替えてきますね。玄関の前で集合しましょう」
 少女はパンと手を叩く。楽しくて仕方がないと言うような笑みを浮かべる。
「今日は旦那様のおごりってことで良いでしょうか?」
「メイドの安月給をたかるつもりはない」
 エミールは言った。ベッドから起き上がる。動きに合わせて長い銀髪が背を揺れる。
「やったー! 待ってますからね!」
 ティカは嬉しそうに、扉から出て行った。入れ替わるように年配のメイドがやってきた。
「旦那様はティカには甘いですね」
 ニコニコ笑顔でメイドは言う。
「どうにも調子が狂う」
 エミールはぼそっと言った。
「良いことですよ。旦那様はまだお若いんですから」
 洗面盆に水差しで水を足していきながら、メイドは笑みを深くする。
「最初、旦那様がティカを拾ってきた時は屋敷中が驚きましたね。あれからもう6年ですか。時間が経つのは早いですね」
 メイドは懐かしがりながら言う。
 青年は洗面盆で顔を洗う。人間の街に偶然、足を運んでからもう6年も経つのかと思った。雪がちらつく夜だった。裸足で花を売っていた子供が目の前で倒れた。いつもなら無視していたところだったが、直前の会話の続きが気になって助ける気になったのだった。一体、どんな話をしていたのか。6年という歳月が記憶を忘却の彼方に押しやった。
 メイドに渡されたタオルで顔を拭くと、椅子に座った。
「ティカにも恋人の一人や二人できてもおかしくはない年頃になったんですね」
 髪を梳くメイドが言った。
「あのようなお喋りに色恋沙汰があるとは思えぬが」
 エミールの言葉にメイドはクスクスと笑う。
「そう思っているのは旦那様ぐらいですよ。ティカは可愛らしい娘です。朗らかな笑顔に、楽しそうな口調。旦那様仕込みの洗練された仕草。屋敷の若者の中にも、ティカを好いている者がいるんですよ」
 メイドは襟元で髪を結う。
「物好きな」
 エミールは言った。
「あとは自分でする。退がっていい」
「分かりました」
 メイドは一礼すると、扉から出て行った。
 鏡には不機嫌な青い瞳の青年が一人写っている。自分の知らないところで事態が動いているのが気に食わなかった。

  * * *

 玄関前には白色のワンピースを着た少女が待っていた。普段はまとめている髪もおろされ、背中に流れていた。リボンの一つでもつければいいのに、髪は真っ直ぐおろされているだけだった。アクセサリーの類もしておらず、生のままの少女が立っていた。こちらの視線に気がつくと、手を大きく振る。
「旦那様ー! 早く、早く」
 嬉しそうな声が呼ぶ。エミールはいつも通りの速度で、玄関前に降りていく。
「行ってらっしゃいませ」
 と執事が玄関を開ける。
「すぐに帰る」
 エミールの言葉に
「そんなぁ!」
 とティカの不服な声が上がる。
「さあ、行くぞ」
 エミールはティカの肩を掴んだ。その細さに驚き、ドキリとした。
「はーい!」
 ティカは嬉しそうに笑った。
 大の月のお祭りに不慣れなエミールと賑やかなものが大好きなティカの組み合わせでは、どうしてもティカが案内役になる。祭りのメイン会場に入る前に、提灯屋に寄ろうという話になった。
「大の月で充分、明るいだろう」
 エミールが言うと、提灯屋の亭主とティカが笑いを零す。
「百合の提灯をください」
 ティカは様々な花の形を模した提灯の中から、迷いもせずに百合の提灯を選んだ。もちろん代金はエミールが支払った。
 少女は百合の提灯を下げながら、道を歩く。
「何故、百合にした?」
「旦那様、お嫌いでしたか? てっきり好きな物だと思っていました」
 ティカの黒い瞳が否定しないで欲しい、とエミールを見上げた。
「好ましい花だと思う。だが、あそこにはたくさんの花提灯があっただろう」
「旦那様の好きな花ならいいんです。今日は旦那様に楽しんでもらいたいと思っていますから」
「どうして私が百合が好きだと知っている?」
「旦那様は覚えていらっしゃらないと思いますが、6年前。百合の花はないかと訊ねられたのです。季節外れの花を買い求められるお客様は珍しいです。そんなに百合の花が好きなのだ、と私は覚えていただけです」
「6年前か」
 エミールは不機嫌につぶやいた。
「そろそろですね。祭囃子が聞こえてきました。道を見ていてくださいね」
 ティカが言う。
 空から星が降ってきたかと思った。花提灯に照らし出された道はキラキラと輝いていた。光で反射する鉱物が塗られているのだろう。頭上にも星、足元にも星が煌めいている。
「ね、お買い得でしょう? 旦那様」
 少女は得意げに言う。
「綺麗なものだな」
「大の月の満月の夜だけの限定なんですよ。お祭りの夜にしか見られないんです。これだけでも外に出た甲斐があったでしょう?」
「そうだな」
 エミールは素直に認めた。
「わ、珍しい! 旦那様が私の言葉に文句をつけないなんて。大成功ですね! 嬉しいです」
 花提灯に照らされて、ティカの笑顔がより輝いて見えた。
「袖をつかむのと、手をつなぐの、どちらが良いですか?」
 少女が訊ねてきた。
「他に選択肢はないのか?」
「あとは、紐をつけるとか?」
 ティカは小首をかしげる。その拍子にさらさらと黒髪が流れる。
「何かしらの手段を講じないと、旦那様とはぐれてしまうような気がするんです。どちらがよろしいですか? はぐれて迷子放送されるほど、恥ずかしいものはないですよ。だから、旦那様が恥ずかしくない方を選んでもらえたら嬉しいですけど。旦那様に名案があるなら、そっちでも良いですよ!」
 ゆっくりと歩きながら、少女は言った。エミールは悩んだ。祭りなど興味がなく、来たことも数えるほどだ。小柄な少女は活発に動き回るだろう。人混みの中に飛びこんでいくのだ。はぐれる可能性が高い。
 エミールはティカの空いている左手をつかんだ。小さな手はエミールの手よりも温かかった。
 ティカは左手を揺らす。
「旦那様の手、大きいですね」
 何が嬉しいのか分からないが少女は笑った。
「さあ、屋台に行きましょう! 旦那様、起きてからまだ何も食べていないからお腹が空いているでしょう?」
「別に食べなくても死にはしない」
「それは旦那様の体がそうなだけで、食べること自体はお好きでしょう? 屋敷では出ないような食べ物も屋台には並んでいますよ! 見ているだけでも楽しいですから!」
 ティカはエミールの手を引く。メイン会場につくまでに、エミールは「美味しいですよ!」という言葉と共に、衛生面に難がありそうな食べ物を食べさせられた。人混みの熱気の中で食べるのは、若干面白かった。両手が塞がっている少女に食べさせてやるのは、最高に面白かった。
 メイン会場では華やかに着飾った娘たちと若者たちがダンスに興じていた。手を繋いで、軽快にステップを踏んで、ターン。そしてパートナーチェンジ。どこか牧歌的な変拍子で踊られるダンスは見ていて、飽きがこなかった。
「踊らなくていいのか?」
 エミールはティカの耳元でささやいた。少女の肩がピクリッと動いた。
「びっくりさせないで下さいよ」
「それだけ夢中になっていたということか」
「す、すみません!」
 ティカは頭を下げた。
「今日は旦那様に楽しんでもらうためにお祭りに来たのに」
「もう充分、楽しんだ」
 エミールは言った。
「本当ですか!?」
 黒い瞳が喜びで彩られる。
「嘘をつく理由が見当たらないな。それでダンスは踊らなくてもいいのか?」
 青年は言った。
「ダンスは見ているだけで充分です。私じゃ、踊れませんし」
 少女は視線を落とした。
「確かに、あのダンスは難しそうだな」
「旦那様は踊りたいんですか?」
 ティカは顔を上げた。
「まさか。宮廷の円舞曲ですら踊らない私が、祭りでダンスを踊るのか? 滑稽だな」
「そうですよね。変なこと訊いてすみません」
 そう言った黒い瞳には陰が落ちていた。
「そろそろ帰るぞ」
 無性に腹が立ってきて、エミールはティカの手を引いた。足早に祭り会場を後にする。無言で手をつないだまま歩いている。それが何となく気に食わない。お喋りな少女が何も言わないのが、苛立った。祭囃子も遠ざかり、星の道が静かに二人を照らしていた。少女の歩みに合わせて揺れる花提灯に鉱物が煌めく。行きと帰りではこんなにも気持ちが違う。それでも道はお構いなしに照らしてくれる。
「どこかで休んでから帰るか?」
 エミールが折れた。このまま、屋敷に帰るのが嫌だったのだ。
「近くにベンチがあります」
 ティカがようやく口を開いた。少女の言うとおり星の道のわきに鑑賞して行ってくれと言わんばかりにベンチが設置されていた。
 二人は並んで座った。手は自然と離れた。背もたれに体を預ける。屋敷のソファと違って木の感触が背に当たる。どうしたものか、と星の道を眺めていると、花提灯が揺らめいた。少女の頬を透明な雫が流れていく。明るすぎる大の月が涙の跡まではっきりと見せる。
「旦那様。何が悪いのですか? 悪いところがあるなら、せいいっぱい直します」
 涙混じりに少女は言う。
「別に気にしなくてもいい。ただ人混みにあてられただけだ」
 エミールは取りつくろうように言った。
「本当ですか?」
 濡れた黒い瞳がエミールを射抜くように見つめる。
「本当だ」
「本当に本当ですか?」
「本当に本当だ」
「本当に本当に本当ですか?」
「くどい!」
 エミールは言った。すると少女は大きな瞳を瞬かせた。眦にたまっていた水滴が頬を伝っていった。
「旦那様。眉間に皺が寄っています。幸せな人はそんな顔しません」
 ティカはクスッと笑った。どうにか泣き止んでくれたようだ。エミールは安堵した。
「旦那様は覚えていらっしゃらないでしょうが、6年前もこんな会話をしたんですよ。百合の花がないと解って、水仙やクリスマスローズを勧めてみたんですけど。旦那様は椿を選んだんです」
 黒い瞳は星の道に投げかけられる。そこに6年前が存在しているように。
「最初に赤い椿を差し出すと、白はないかと訊かれて。慌てて白椿を渡したんです。旦那様は白がお好きなんだと覚えました」
「それで、白か」
 エミールは少女の服を見る。飾り気のない白色のワンピースだった。格別に好きだというわけではない。何となく、白の無垢さが好ましいと思うだけだ。
「はい。旦那様とお出かけする機会がやってきたら、このワンピースを着ようと思っていたんです。念願が叶いました」
 ティカは嬉しそうに微笑んだ。
「それで6年前。白椿でいいのか何度も確認したら、くどいと言われました。椿は首から落ちるから不吉だと避ける人も多いんです。それなのに、買い求められたから。聖誕祭間近でみな浮き足立っているのに、難しそうな顔をしてらっしゃったんです。それで、思わず『幸せですか?』と訊いてしまったのです」
「それに私は何と答えたんだ?」
「やっぱり覚えていらっしゃらないんですね。私はちゃんと覚えているのに、残念です。旦那様は答えずに金貨をみすぼらしい花売りの子供に支払ったんです。花かごどころか、子供まで買えてしまう代金に、これしか持ち合わせがないと強引に押し切ったのです。困った子供は――」

「『幸せにしてあげる』」

 エミールは唐突に思い出した。雪がちらつく中、裸足の子供は誰にも言えないことを言い切ったのだ。それも自信満々に、子供らしい純粋さで断言したのだった。
「そうです! 覚えていてくださったんですね!」
 ティカはエミールを見て、笑みを深くする。
「旦那様。今、幸せですか?」
「少なくとも退屈はしないな」
 青年は答えた。少女といると、自分の中にこれほどの感情が渦巻いていたのかと気づかされる。
「まだ眉間に皺が寄っています」
 ティカの人差し指がエミールの眉間にふれる。
「それを何とかするのがお前の仕事なのだろう?」
 愉快だと思った。考え方がこうも違うと、会話をしているだけでも楽しくなってくる。
「そうでした!」
 そう言うとティカは背伸びをして、エミールの眉間に口づけた。柔らかな感触に、遠い昔を思い起こされる。眠る前のおまじないに、母がしてくれた。
 間近に黒い瞳があった。
「おまじない、効いたみたいですね」
 ささやくよりも大きく、つぶやくよりも小さな声が言った。エミールは眉間にふれた。おそらく皺はないのだろう。小さなキスにも魔力がこもっているらしい。こんな単純なことで喜ぶ自分に驚いた。
「そろそろ帰るぞ」
 エミールはベンチから立ち上がった。ティカの手を取る。
「もうはぐれませんよ」
「そういう気分なのだ」
 小さな手を包みこむように大切に握る。
「分かりました!」
 少女はぎゅっと手を握り返してきた。花提灯が揺れる。星の道がざわめくように煌めいた。大の月が二人のシルエットを道に刻んでいく。長い影が一つになる。
「また、来ましょうね」
 ティカは言った。
「気が向いたらな」
「約束ですよ」
「ああ、そうだな」
 エミールは言った。次の大の月の満月は当分先だ。その時、少女と自分は今日のように笑って泣いて、また笑うのだろうか。そうやって思い出を重ねていった先には何が待っているのだろう。期待をしている自分に微苦笑する。
「絶対、次にも来ましょうね。ダンスも踊りましょう!」
 ティカは楽しげに言った。
「やはり踊りたかったのか?」
「ダメですか?」
 少女は小首をかしげる。長い髪がさらさらと流れていくのがくっきりと見える。
「宮廷の円舞曲なら考えてもいい」
 ためいき混じりに答える。
「連れて行ってくださるのですか!?」
「その前に淑女のマナーを叩きこめたらだがな」
「私、頑張ります!」
 ティカは花が自然に綻びるように微笑んだ。青年の心臓がトクンと跳ねた。
 いつか、このつないだ手を離さなければならない日がやってくるのだろう。本来なら喜ばしいことだ。けれどもエミールにはその日ができるだけ遠くでありますように、と思ってしまった。空を仰ぐ。満月の大の月が頂点を目指して昇っていくところが瞳に映る。永遠などない、と言うように明日には欠けていく月だ。もし願いが叶うなら、いつまでも幸せの隣にいたいと思った。
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