秋風渡り、金木犀を濡らす

 一点の穢れなき天宮の回廊を青年は歩いていた。
 ふいに甘い香りが胸をすく。天界でもこの香りを纏うのは独りきり。回廊の先で、小さな人影を見つけた。
「桂花公主」
 名を呼ばれた乙女は足を止め、振り返る。いっそう香りが広がった。
「金風将軍」
 乙女は微かに笑みらしきものを面に浮かべた。
「いつ下界からお戻りに?」
「先ほど天帝に報告をしたところだ。それよりも七夕の舞姫に選ばれたと聞く」
 青年は言った。
「拝命したのは今しがた。お耳が早いのですね」
「任せてくれ。秋のことで我の知らないことはない」
「金風と名乗るだけありますね」
 桂花はゆるりと歩き出した。翠色の裳裾が揺れる。
 青年も乙女に合わせて歩き出す。
「祝いの品だ」
 金風は懐から小さな木箱を取り出す。小箱には金木犀の花が精緻に彫られていた。
「いただいてもよろしいのですか?」
 桂花は小首をかしげる。長い黒髪がさらさらと背に滑り落ちる。
「貰ってもらわなければこちらが困る」
「では、ありがたく受け取らせていただきます」
 乙女は小箱を受け取る。袖から出た指先が金風の指先とふれあった。ひんやりとした指先に青年の心臓が高鳴った。指先を握りしめたいと思った。そんなことをしたら、乙女を困らせるだけだ。金風はさりげなく手を袖の中に隠した。
「開けてもよろしいでしょうか?」
 桂花が訊ねた。
「もちろんだ」
 金風は声が震えるのを必死に抑えた。
 桂花は丁寧な手つきで蓋を開ける。中に入っていた品に目を大きく見開く。それから吐息をつく。
「素敵」
 言葉が零れ落ちたといった風情で乙女は言った。
 木箱の中身は硝子細工。陽光に揺れる金木犀の花の簪だ。
「このような物をいただいて、本当によろしいのですか?」
「桂花公主のために造らせたものだ。星逢の日までに間に合って良かった」
「嬉しい」
 乙女は恐る恐る簪にさわる。硝子細工がふれあって耳に心地よい音がした。
「ありがとうございます」
 桂花は蓋をすると、優雅にお辞儀をした。飾り気のない髪が自然と流れ落ちる。黒々とした髪に金木犀の簪は映えるだろう。星逢の日が楽しみだった。
「お礼にお茶でもどうですか?」
「一服、させてもらおうか」
 金風は言った。


 必要最低限のものしかない堂の中は、いつ来ても落ち着かないものだ。金風は勧められるままに椅子に座って、外の景色を眺めていた。程なくして桂花が茶器を盆にのせて現れた。典雅な手つきで金風の前に白い茶器を置く。
「外に何か?」
 桂花が訊ねる。
「いや、陽光が好ましいと思っていただけだ」
 金風の言葉に「そうですか」と桂花はうなずき、向かい側に座る。
「下界はどうでした?」
「あちらこちらで戦火が上がっていた。今の朝もこれまでだろう」
 酷いありさまだった。目の前の公主が下界を見たなら、倒れかねない。と思うほどだった。
「では朝が移るのですか?」
「それを奏上しに、下界から戻った」
 青年はお茶をすする。ちょうど良い温度に淹れられたそれは臓腑を温める。
「人の世は短いものですね。つい先だって生まれたばかりの朝だと思っていたのに、もう潰えるだなんて」
 桂花は悲しげに目を伏せる。
「朝を短命にしているのは、人の子らだけの力ではない。人の身なりをした妖魔たちが下界を徘徊していた」
 天子を陥落するために美女に化けた妖魔やら、軍人になり一騎当千をなしえる妖魔たちが、下界に降りていた。元をただせば天界人だが、罪を得て下界に落とされた者たちが不満を募らせた結果だった。天界からも援軍を出さねば、下界は焦土と化すだろう。西軍に身を置く金風も下界に降りて剣を振るう機会がありそうだった。
「妖魔たちは、どうして罪を重ねるのでしょう。善行を積めば天界に戻ってくることもできるというのに」
 下界に降り立ったことのない乙女は無垢な反応を示した。秩序の保たれている天界には驚きも奇抜なこともない。同じような日常をくりかえしている。死という概念もないから、ただ怠惰な時間が流れている。鎖のように縛られている日々に飽きが来るのだろう。罪人たちは増加傾向にある。
「下界で善行を積むのが難しいからだろう」
 金風は当たり障りのないことを言った。妖魔になった天界人が戻ってこない理由の中で、最も穏当な答えだ。
「そんなに下界は魅力的なのですか?」
 乙女は瞳を瞬かせる。金風は軍部の用事で何度も下界に降り立ったが、目の前の乙女ほど魅力的なものはなかった。そのことを素直に伝えられるほど、青年は子どもではなかった。
 茶で口を潤す。
「簪を作ったのも人の子だ」
「まあ、そうなのですか。天界では珍しい細工だとは思いましたが、人の子が作ったのですか。金風将軍は人の子らにも知己がいらっしゃるのですのね」
 桂花は棚に振り向く。そこには先ほど贈った木箱が大切そうに置かれていた。
「人の子の一生は紙燭の火のように短い。だからこそ、残せるものがある」
「では、作られた方はすでに」
 乙女は弾かれたように、青年の方に向き直る。
 真っ直ぐとした視線が金風に注がれる。
「次に下界に降りた頃にはいないだろう」
 事実を口にした。腕のいい職人だったが、最後に会った時は老齢にさしかかっていた。
「残念です。お礼を言いたかったのに」
 桂花は茶器の縁をなぞる。茶器の中に波紋が生まれる。まるで乙女の心情を表すように。
「身につけてくれることが最大の礼だろう」
「はい」
 茶器に一滴、透明な雫が溢れ落ちた。


 視界が赤く染まる。生温い血が肌をしたたかに打つ。わずかに口に入ったそれは赤葡萄酒の味がした。元天界人でも流れる血潮の味は妖魔になっても変わらない。金風は酔いそうになりながら、剣を振るう。幾人、罪人を断罪してきたのだろうか。数など覚えていない。ただ芳醇な味わいを全身で受けていた。天界で一人斬れば罪人として妖魔の身分に落とされる。けれども下界で妖魔を百人斬り殺せば英雄になる。同じ生命でも重さが違うと言われればそれまでのこと。そんな道理がまかり通るところに青年は立っていた。
 飛来する矢を剣で斬り捨てる。がら空きになった胴を狙って槍兵が突進してくる。それを身をよじらせて回避する。金風は槍兵の手首を狙って、剣を振るう。鉄の匂いがする血が滴り落ち、槍兵は獲物を落とす。小動物のように怯えた瞳で槍兵は逃げていった。金風はそれを追いかけはしなかった。
 人の子らと妖魔が混ざる戦場は、幾度体感しても厄介だった。人の子らを殺せば、己も罪人に落とされる。天界が許しているのは禊のための戦だ。妖魔のみを斬り捨てなければならない。
 思考を巡らしている間にも、攻撃はやってくる。ひらりと舞うように小剣が金風の首を狙う。天界人を殺すには頭を損壊する必要がある。小剣はそれをよく知っている。青年は剣の背で小剣を受け止める。敵は天宮で見た顔をしていた。いつの間に下界に落とされたのだろう。美しい女人の姿をしていたが、強い。素早い身のこなしで的確に狙ってくる。防戦一方になる。見知った顔を斬るのに躊躇してしまう。金風の剣が鈍っていることを知って、女人は口元に笑みを刷く。小剣が肩にふれる。熱い。傷口からじわりと血が流れ出る。
 ストン。
 矢が女人の頭を貫いた。女人が崩れ落ちていく。それに釣られたのか、他の妖魔たちが集まってくる。金風は流れ矢に感謝しながら、いったん退く。妖魔たちは仲間であった女人を貪り始めた。赤葡萄酒の匂いが充満していく。妖魔は人も仲間も区別なく喰らう。罪を重ねることで強さを増すのだ。人一倍大きな妖魔と目が会った。女人の細い腕が口からはみ出していた。ねっとりと咀嚼をしていた。腱が切れる音、骨が砕かれる音が戦場に響く。巨漢の妖魔は柔らかな臓腑の部分をすする。芳醇な匂いに意識が飛びそうになる。仲間にならないかと誘われているようだった。
 けれども、金風はギリギリのところで耐えた。剣帯に括りつけられた守り袋から香る金木犀が、青年を守った。
 この大禊が終わったら、七夕の宴に参加するのだ。舞姫に選ばれた桂花の舞を見ると約束したのだ。普段から飾り気のない乙女が装ったら、どれほど麗しくなるのだろうか。牽牛と織姫が一年に一度の再会を果たす日に、己たちが離れ離れだというのは理不尽に感じる。金風は空を仰ぐ。下界から見る天界はとても遠く遥か彼方で茫洋としていた。
 妖魔の血で染まった剣を払う。肩の痛みは治まってきた。死ぬに死ねない体とはいえ、痛みは人の子らと同様に感じる。白一色だった衣も赤黒く染まっていた。返り血か、己の血か、区別ができないほどの血を浴びた。
 主犯格であろう巨漢の妖魔に剣をむける。巨漢の妖魔は反りのある曲刀を手にしていた。大きな口から舌が出て、最後の一滴まで舐めていたところだった。女人は髪の一本も残されていなかった。
 金風は剣を手に懐に走りこんだ。眼前の妖魔を倒せば、天界に戻れる。約束を果たすために下段から上段へと斬りこむ。手応えはあった。赤葡萄酒の匂いが撒き散らされる。大ぶりな動作で曲刀が青年の頭に降り降りる。それを剣の背で受け止めたものの、重い。無理矢理、受け流す。刃と刃がこすれあって嫌な音がした。再度、距離を取る。俊敏性はこちらの方が上だ。間合いに入れれば勝てるだろう。金風は飛びこむ。腹を横薙ぎすると、肉片が舞い、黄味を帯びた白い脂肪と腸が溢れ出た。生温い血が青年の肌を覆いかぶさった。巨漢の妖魔がぐらついた。その一瞬の隙を見逃さず、金風は首を狙った。ぷっつりと柔らかな肌が斬れて、骨に喰いこむ。が、渾身の力で骨を砕く。曲刀が青年の肩の上を通り過ぎようとしていた。首筋に冷たい刃の感覚を覚える。痛みが走ったが、金風の剣は巨漢の妖魔の首を叩き落とした。背中まで流れ出ていく血に眩暈を感じながら、勝利を確信した。巨漢の妖魔は地鳴りを起こしながら、倒れていった。常だったら、集まってくる小物の妖魔たちが退いていく。七夕前の大禊が終わったことを知らせるようだった。金風は静かに目を閉じた。


 薬の香りと胸をすくような甘い香りが鼻をくすぐった。青年は瞳を開いた。眩しいぐらいの光が飛びこんできて、金風は目を瞬かせる。見慣れた天井にここが天宮の典薬寮の一室だと分かった。
「目覚めはどうだい? 英雄さん」
 老女が盆を片手に声をかけてきた。金風は慌てて上体を起こす。
「宴は?」
 どれぐらい眠っていたのだろう。傷はすっかり癒えていた。
「桂花公主ならさっきまでいたよ。泣きそうな顔して」
 老女は薬湯を金風に手渡す。
「天帝さまからの贈り物だ。大禊の英雄さんに特別配合をした薬だ」
 青年は薬湯を受け取ると一気飲みをした。温かい液体が臓腑を下っていく。七夕の宴がもう始まっていると聞き焦る。乙女の舞を見るために、戻ってきたのだから。老女に空になった湯呑を渡す。
「勿体ないねぇ。もっと味わっておくれよ」
「感謝する」
 金風はそういうと起き上がる。枕元には将軍としての正装の衣装が畳まれて置かれていた。青年は袖を通し、帯を締める。剣帯に括りつけられている守り袋は赤黒く染まっていた。微かに香る金木犀の香りに、大禊が夢ではなかったことを知らせる。
「英雄さん。あと一寸、深ければ鬼籍入りだったよ」
 老女がにやにやと笑った。金風は首筋を撫でる。本当に無事に戻れたことを安堵する。
「ありがとう」
 惜しみなく薬を使ってもらったのだろう。部屋は苦み走った匂いが満ちていた。
「さあ、早く行っといで。桂花公主の舞が始まってしまうよ」
 老女は金風の背を叩いた。
 宴会会場は人で溢れていた。一年に一度の星逢の夜だから当然のこと。天界中の住人が招待されている。金風は人波を掻き分けながら舞台を目指す。特別に設えた舞台は蝋燭の光に包まれていて、華やかだった。どうにか席に着く。
 銅鑼が鳴った。
 宴中の蝋燭の火が消された。天から降り注ぐ星の光が増す。琴が爪弾かれる。太鼓が拍子を刻む。笛の音が高音を響かせる。
 階を佳人たちが登っていく。舞台の上には五色の衣を身に纏った舞姫たちが揃う。星明りに縁どられた佳人たちは輝いていた。楽の音に合わせて、群舞が始まる。同じ振り、同じ所作なのに、金風の瞳はただ一人を見出す。妍を競い合う舞姫たちの中で、たった一人を追いかける。思った通り金木犀の簪がよく似合っていた。繊細な花弁がふれあう音が聞こえてきそうだった。領巾が宙を彩る。緩やかに始まった楽が少しずつ速くなる。それに呼応するように舞も速くなる。太鼓の刻む拍子が心の臓よりも速くなる。裳裾が乱れ、月のように白いふくらはぎがちらりと見えた。金風の胸が波打つ。笛の音が甲高い旋律をなぞる。琴の音も糸がはち切れそうな勢いで高音部分が爪弾かれる。楽が最高潮を迎える。一糸乱れぬ群舞に息をするのも忘れる。瞬きひとつが惜しくて、金風は食い入るように舞台を見つめた。
 トタン。
 太鼓の音が最後の一音を刻んだ。銅鑼が鳴ると同時に、宴中の蝋燭に火が灯った。舞姫たちはお辞儀をしながら、そろりそろりと舞台から降りて行った。宴の喧騒が戻ってきた。金風は嘆息をついた。それから立ち上がった。桂花公主に逢うべく、その姿を探した。宴会会場の中心から外れたところで、乙女を見つけることができた。七夕の月明かりは頼りなく、乙女の儚げさを強調していた。
「ご無事で良かった」
 桂花はささやくような声で言った。
「守り袋のおかげだ。戦場では助かった」
「またまみえることができて良かった」
「舞を見ると約束しただろう。我はできない約束はしない」
 金風の言葉に、桂花は目を瞬かせる。透明な雫が頬を伝う。
「本当に良かった」
 涙まじりの声で乙女は言った。金風は細い肩を抱き寄せた。金木犀の甘い香りが胸をすく。このまま時間が止まればいいと思った。
「こんなにも苦しい想いは初めてです」
 腕の中の桂花が呟く。硝子細工の金木犀の簪が切なげに鳴る。このまま乙女の存在が掻き消えてしまうのではないか、と金風は不安になった。
「心配をかけてすまなかったな。この通り、我は無事に帰ってきたぞ」
 金風は桂花の背を優しく撫でながら言う。
「好きです」
 乙女は泣き濡れた瞳で青年を見上げた。
「ずっとお慕いしておりました」
 心地よい声が金風の耳朶を打つ。突然、もたらされた告白に青年の心臓が跳ねる。
「我も同じだ。桂花公主を好いておる」
 金風は桂花の頬を撫でる。頬は涙で冷たくなっていた。乙女は目を見開き、それからゆっくりと伏せた。温かい涙が青年の指先を濡らした。
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