追
もし私が追われていたら、孫策様は助けてくださいますか?春の日の昼下がり。
江東の花の一輪は、自室で刺繍をしていた。
一針一針、心を込めて。
大好きな、忙しいあの人のために。
「わりぃ!
ちょっと匿ってくれ!」
突然、部屋に声が飛び込んできた。
大喬は慌てて、持っていた布やら針やらを卓に置いた。
「そ、孫策さま?」
部屋の中に入ってくるやいなや、孫策は大喬の後ろに縮こまった。
「しっ!
ちょっと追われてるんだ」
しゃがんでいる夫に、声をかける。
孫策は人差し指を立てて、黙っているように促した。
ばたばたと、慌しい足音が近づいてくる。
「これは大喬様。
こちらで、孫策様を見かけられませんでしたか?」
夫の副将が、礼をとってから訊いてきた。
一瞬迷ったが、大喬は首を横に振った。
「いいえ」
同時に笑ってみせる。
彼は、ぺこりと頭を下げた。
「そうですか、では失礼いたします」
丁寧に拱手をし、その一団はまた走って行った。
「行ったか?」
小さな声が、足元から聴こえる。
大喬は、ふうと溜息をついた。
「もう、今度は一体どうなさったんですか?」
ぱんぱん、と埃を払う孫策に、大喬は言った。
何となく、追われていた理由は分かるけれど。
「ははっ、ちょっとな。
仕事放ってきた」
何でもないことのように、孫策は笑った。
孫家の要が、だ。
「駄目じゃないですか!
どうしてお仕事、さぼってきたんですか?」
大喬は怒鳴った。
多分、あまり意味はないけれど。
「そりゃ、決まってるだろう?
お前に会いにきた」
さらりと、孫策はすごいことを言ってのけた。
「え?」
とくん、と鼓動が跳ねる。
「最近、忙しくてちゃんと話してなかったからな。
たまには、どっか出かけようぜ」
愛おしい人は、にかっと笑った。
大好きな笑顔が、すぐ傍にある。
大喬の胸は、一層高鳴る。
「それは嬉しいですけど……」
ついて出た言葉は、心からの願い。
一緒にいたいと、思ってしまう。
そんな自分は、すごくずるい。
いけないことなのに、心は言うことを聞いてくれない。
嬉しくて、嬉しくて。
忙しい夫の、たった一言が。
「よし、決まりだな!
じゃあ、どこにするかな〜?」
子どもみたいに笑った孫策が、あまりにも可愛くて。
大喬は、くすりと笑みをもらした。
「孫策」
玻璃のはまっていない窓。
その向こう側には、いつの間にか周瑜が立っていた。
「げっ、周瑜!」
先に声を上げたのは、孫策だった。
「周瑜様」
大喬は、目の前の男の名を呼んだ。
ここに来ることを、最初から知っていたのだろう。
足音らしい足音は、聞こえてこなかった。
「すまないが、孫策には戻ってもらおう。
申し訳ない」
周瑜が、丁寧に会釈をした。
「いえ。
仕方ありませんね」
無理に笑って、大喬は言った。
残念だけど、仕方がない。
夫はこの孫家を支える人。
唯一無二の存在だから。
私だけのわがままで、仕事を放ることは出来ない。
どんなに一緒にいたくても。
どんなに匿ってあげたくても。
この人には、やり遂げたい夢がある。
だから……。
「孫策、早く仕事を終わらせてしまうぞ」
盛大に溜息をついて、周瑜が声を紡いだ。
「捕まっちまったか」
やれやれと言いながらも、孫策は大人しく部屋を出た。
二人の距離が、また少し離れた。
寂しいと、思ってしまう。
もっと、一緒にいたい。
孫策様とずっと、二人でいたい。
大喬は視線を床に落とした。
「卓の上の書簡の決済。
全て終わらせたら、出かけても構わないぞ」
もう一つ溜息をついて、周瑜が声をもらした。
その声に、大喬はぱっと顔を上げた。
「本当か!?」
孫策は、顔全体で喜びを表現していた。
「ああ」
確かに、周瑜が頷いた。
こちらをちらりと見て、妹の夫は微かに笑った。
嬉しい事実に、大喬も胸躍る思いだった。
「仕方ねぇな。
待ってろよ、大喬」
孫策がこちらを見た。
「はい。
あとでお茶をお持ちしますね」
無邪気な瞳を見つめて、大喬もにっこりと笑う。
「ああ、よろしくな」
優しく笑った夫の笑みが、とても印象的だった。
あなたの笑顔を、ずっと追わせてくださいね。