愛
春。晴れて白龍の神子が、この地を去る日のことだった――。
愛を知る者は、苦しみを知る者。
藤原泰衡は、一人庭を歩いていた。
当てもなく、ただふらりと。
やることがなかった訳ではない。
いまだ残る、戦火の爪痕。
それの処理は、まだまだ山ほどある。
他にも、やらなければいけない仕事はあった。
それでも、泰衡はやる気になれなかった。
「そろそろか……」
ぽつりと呟いて、泰衡は何気なく手にしていた鞭に視線を移す。
今日、この奥州から旅立つ者。
銀を思い浮かべていた。
山を彷徨っていた、名も無き男。
自ら名を与えて、すぐ傍に置いていた人形。
命令には逆らうことなく、大人しい飼い犬のような存在だった。
「あれが、な」
ふっと口元を歪め、泰衡はふと空を仰いだ。
目を閉じれば蘇る。
唯一人の、愛おしい女のために駆けて来た男が。
白い息をはいて、懸命に叫ぶ男。
泰衡はそれを、心底憐れだと思った。
愚かなことをする、と嘲笑した。
その気持ちは、今でも変わってはいない。
幸せそうに笑っていた、あの男を見ても。
「愛とは、それほどに素晴らしきものなのか」
囁きが風にさらわれていく。
声は、誰かに聞かれることを嫌ったのだろう。
誰に聞かれることもなく、どこかへと消えた。
「俺には分からん」
本心が口をついて出た。
泰衡には、理解できなかった。
愛というものが、あれを変えた。
感情を持たないはずの人形が、主に意見をした。
それが、気に食わなかった訳ではない。
そこまで、我がままでは無いつもりだった。
「人は、厄介な生き物だ」
ふっと息をはいて、泰衡は笑った。
人という生き物は、賢いが厄介。
心があれば、嬉しいと感じることも出来る。
けれど、同時に苦渋を味わうこともあるのだ。
人形でいれば、そんな苦しみは知らなくてすむ。
命に従い、感情など持たなければ、嫌なことを回避することが出来る。
喜びを知らない者は、悲しみも知らない。
だからこそ、あれを人形にしてやったというのに……。
泰衡は、自分の手を見つめた。
「ワン!」
突然、鳴き声が聞こえた。
いつの間にか、足元には金が尻尾を振って座っていた。
「金か」
顔をほころばせ、泰衡は膝を折った。
「……お前は、俺の傍にいるのか?」
視線の高さを合わせてやる。
金は、問いかけに答えるように鳴いてみせた。
「クーン、クーン」
足に、ふわふわの毛が擦り寄ってくる。
可愛らしい行動をする飼い犬の頭を、泰衡は優しく撫でた。
「温かい、な」
何度も何度も、泰衡は金の柔らかな毛を撫で続けた。
奥州の春は、まだ訪れたばかり。
この地を愛する男は、今日去り行く友に心の中で別れを告げた。