草花と戯れている時。
 その時間が、一番大好きだった。


「阿斗さま」

 名を呼ばれて振り返る。
 そこには、良く見知った顔があった。

「星彩……」

 いつもなら、嬉々として呼ぶ名だった。
 けれど、今はそんな気分になれなかった。
 蜀の地に、春が訪れていた。
 色とりどりの花が咲き、温かい風が吹く。
 小高い丘に、阿斗は一人うずくまっていた。


「女官の方々が探していました」
 少女が、淡々と喋る。
 表情はほとんど無きに等しい。
 でも、彼女が困っていることを阿斗は分かっていた。
「うん。
 ごめん、星彩」
 ここで謝っても、何の解決にもならない。
 知っていたけれど、阿斗にはそれしかかける言葉が見つからなかった。
 視線を前へ戻す。
 見渡す限り、空と雲と山。
 ただただ、阿斗はそれを眺めていた。
 ふう、と一つ息をはく。
 重たい空気が回りに立ち込めた。

『趙将軍は、阿斗さまを単騎でお助けなさったのですよ』
『殿は、それはそれは趙将軍に感激なさって……』

 先程の話が頭の中で繰り返される。
 どうしてあんな話を聞いてしまったのだろう?
 後悔の念で押しつぶされそうになる。

「阿斗さま?」
 今度は振り返らない。
 真っ直ぐに前を見て、自分の体を縮こめる。
 あと少しで、涙が出てきそうだった。

 ふわり。

 辺りの空気が優しくなった。
 その事実に驚いて、阿斗はすぐ横を見た。
「せい、さい?」
 気がつけば、そこには星彩の姿。
 自分と同じように、膝を抱えて座っていた。
「こうすれば、阿斗さまのお考えが分かるかな、と。
 でも、分からないですね」
 星彩が微かに笑った。
 それを見て、少年の目頭は熱くなっていった。
「ごめ、んね……。
 ごめんね星彩……」
 やっとのことで言えたのは、そんな言葉だった。

 ここにいた理由も、何も言わない理由も。
 星彩は訊かないでいてくれた。
 ただ、隣に座って分かろうとしてくれた。
 それが嬉しくて、阿斗はその場でわんわんと泣いた。
 思いっきり、子どもらしく。

 ***

 小高い丘。
 春の日差し。
 変わらぬ風景。
 その中で、男は一人膝を抱えていた。
 小さい頃からお気に入りの場所で。

「劉禅さま」

 突然かけられた声に、男は勢い良く振り返った。

「星彩!?」

 戦に出立する際とは違う装いに、劉禅はどきっとした。
 何枚も重ねられた薄い布に、長い裳裾。
 色は緑を基調としていて、彼女に良く似合っている。
 髪には、金や翡翠の飾り。
 愛らしい唇には、薄く紅が引かれていた。
 女性らしい格好で立っている許婚に、劉禅は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。

「やっぱり、こちらにいらっしゃったのですね。
 婚儀の準備が整わないと、皆困っていましたよ」
 困ったように少女は笑って、すぐ横に座った。
 それを見て、劉禅は昔を思い出した。

 いつでも、彼女はこうして自分を探してくれた。
 どんな時も、迷惑そうな顔一つしないで探してくれた。
 その事実に気がついて、劉禅は一層胸を締め付けられる思いだった。

「劉禅さま?」

 声をかけられる。
 苦しみは増すばかり。

 訊きたい。
 でも怖い。
 彼女にまで拒絶されたら、どうすればいい?
 それでも、訊かなければいけない。
 無念のうちに逝ってしまった親友のためにも。

 何より、彼女のためにも。

「……星彩は……」

 喉の奥から、やっとのことで声を絞り出す。
 たった一言なのに、からからに喉が渇く。
「はい」
 こちらを真っ直ぐに見つめてくる少女。
 その瞳には、今自分だけが映っている。


「星彩は、本当に私と結婚してもいいのか?」


 一気に、劉禅は音を放った。
 もう戻れない。
 答えを聞くのが怖い。

「どういう、意味ですか?」
 星彩の表情には、明らかな動揺があった。
「あ、その……すまない。
 何でもない」
 慌てて、劉禅は言う。
 つい、困らせたくないという感情が先に出てしまった。
「?」
 なおも少女は、不思議そうに首を傾げる。
 どうやら、本当に意味が分かっていないとみえる。
 劉禅は意を決す。

 ここまで来たのだ。
 どうせなら言ってしまおう。

 ぎゅっと握り拳を作って、気合を入れなおした。

「星彩は、その……関平のことを……好き、ではなかったのか?」
「どうしてそうなるのですか?」

 間髪いれずに、答えが返ってきた。
 あまりの早さに、男は目をぱちくりさせた。

「違うのか?」

 ずっと、そうだと思っていた。
 幼い頃からずっと、彼女は彼が好きなのだと思っていた。
 武術を習い始めたのも、戦場に出るようになったのも。
 彼がそこにいるから。
 彼の傍にいることを願ったからだと、ずっと思っていた。
 ……それは、勘違いだった?

「私が結婚すべき方は、劉禅さまです」
 きっぱりと、少女が告げる。
 嘘ではないだろう。
 何より、嘘は彼女のもっとも苦手なものだったから。

「では、星彩は誰が好きなんだい?」
 問いかけは、するりと口をついて出た。
 言ってしまってから、取り消そうかとも思ったがそれはやめることにした。
「……私が好きな人、ですか?」
 星彩の瞳が、大きく見開かれた。
 少女の問いに、男はこくんと頷いてみせる。
 心の臓が大きな音をたてて鼓動を繰り返す。
 はやる気持ちを抑えながらも、劉禅は少女の出す答えを心待ちにした。

「……父上です」

 ふっと顔を背けたかと思うと、少女はぽつりと呟いた。
「いや、そうではなくて!」
 一人の男として……と続けようとしたが、それは遮られた。
 星彩が立ち上がったからだった。
「早く行かないと、叱られてしまいますよ」
 こちらに背を向けて、星彩は言い放った。
「え、あ、うん。
 すぐに行く」
 少し強めの口調に、劉禅はあっけなく押されてしまった。
 結局、その続きを訊くことは出来なかった。

「星彩!」

 劉禅は立ち上がり、足早に去ろうとする星彩の後を追った。


 少女の頬がほんの少し赤らんでいたことに、劉禅は気が付いた。 



 もう、草花と戯れている幼い阿斗はいない。
 そこにいるのは、公に認められた嗣君の姿だった。
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