寒い、と言ったことがほとんどない。
 そのことに気がついたのは、セラスが従者になってからだった。



 木枯らしの吹く日。
 窓はぴしゃりと閉められ、暖炉ではパチパチと火がはぜている。
 暖かな空気は、下に留まらない。
 絨毯は敷いてあるけれど、それでも足元は冷える。
 陽はすでに落ちていて、空には月や星が姿を見せている。

「こういう時、魔法が使えたらいいと思うわ」
 羽ペンを元に戻して、アリシアは大きな溜息をついた。
「ちょっと待ってくださいね、ご主人様」
 隣にいたセラスが、にっこりと笑う。
 言うが早いか、青年は呪文を唱えた。
「これで、足元が温かくなるはずです」
 その通り、ふわっと風が起こった。
 温かくて心地良いものだった。
「……ありがとう、セラス」
 ちょっとばかり驚きながらも、アリシアはお礼を言った。

「いえ、下僕として当然のことをしたまでです!」

 瞳をキラキラとさせ、セラスが声を上げた。
 どうやら、礼を言われたことがかなり嬉しかったらしい。
 『下僕』だとか平気で言う頭は、どうかしていると思った。
「そういえば、どうして分かったの?」
「何がですか?」
 本気で分からない、と言った顔だ。
 どうしてこういう時だけお馬鹿なのか、全くもって疑問だ。
 アリシアは、一つ溜息をついた。
「私が寒いってこと。
 そんなこと、全然言ってないのに」

 行儀悪く、頬杖をつく。
 そして、セラスを見上げた。
「それは、ご主人様のことですから!
 いつ何時も、寝ても覚めてもご主人様のことを考えてますから!」
 ぎゅっと握り拳を作って、セラスが力説した。
 その瞳は、明らかに先程よりもキラキラ輝いていた。
「……そう」
 何を言っていいのか、検討がつかなかった。
 仕方なく、アリシアはそれだけ答えて、視線を外した。

 今まで、当たり前すぎた。
 寒かったり、痛かったり、眠かったりした時。
 いつだってセラスは「ご主人様」と声をかけて来た。
 そして、さりげなくフォローを入れてくれた。

 暑いと思えば、足桶に水を入れて持って来てくれたり、
 痛いと思えば、治癒魔法をかけてくれた。
 眠いと思っている時は、魔法でベッドを出してくれたこともあった。

 今更ながら気がついたけど、いつもセラスは『言う前に』分かってくれていた。
 ちょっと前までは、気がつかなかった。
 シンフォニア魔法学校に行ってから、少しづつ分かり始めた。
 とは言っても、もっぱらロイドやサイラスに教えてもらったのが情けないけれど。

「どうかなさったんですか、ご主人様?」
 こちらの顔を覗き込んでくる。
 思考を中断させられたことに、少々むっときてアリシアは告げた。
「何でもないわよ。
 主人の顔を覗き込むなんて、いい度胸してるわね、セラス」
 じっと目を見つける。
 セラスは、慌ててまくしたてた。

「す、すみませんご主人様!
 その、ついご主人様のことが心配で、無礼なことをいたしました!
 だって、急に黙ってしまわれたから、お腹でも痛いのかな、とか色々考えちゃって……!
 えーっと、その、とにかく申し訳ありませんでした!!」

 あたふたと答えるセラスが面白くて、思わず笑みがこぼれる。
「ご、ご主人様……?」
 少し後ずさりながらも、セラスはこっちに視線を送っている。
「そうね。
 じゃあ私の言うこと聞いて頂戴。
 そしたら許してあげるわ」
 顔を上げて、アリシアは両手を胸の前で組んで見せた。
 もちろん、とっておきの笑顔を浮かべて。
「はい!
 ご主人様のご命令でしたら、たとえ火の中水の中!
 どこまでだって、どんなことだってやってみせます!!」
 夜だということを、すっかり忘れていると見える。
 大きな声が部屋中に響いた。

「じゃあ、『アリシア』って呼びなさい」

「はいご主人さ……ま?」
 頷いてから、セラスは疑問符を頭に浮かべた。
 こういう、考えなしな行動を見ていると、こいつが本当にドラゴンなのか怪しいと感じてしまう。
「何でも叶えてくれるんでしょう?」
 にっこりと笑って問う。
「そ、そ、そうですけど……。
 やっぱり、言わなくちゃ駄目ですよ、ね?」
 ほんの少し上目遣いで、セラスが言う。
 男なのに、こういうのが似合ってしまうのが悔しい。
「私たち、主従関係でありながらも『恋人』よね?」
 顔は笑ったまま、『恋人』に力を込めて言う。

 実際、従者になって恋人にもなったのに、一度も名前を呼ばれたことがなかった。
 今更かもしれないけど、やっぱり一度くらいは呼んでもらいたい。
 そう思うのは、女として当たり前のことだ。
 と、心の中で自分を正当化してみる。
 
「……あ、あ、あ……」
 ふるふると震えながら、セラスは頭文字だけを繰り返している。
 これじゃあ、ただの変人だ。
「ちゃんと言いなさい、セラス」
 追い討ちをかけるように、アリシアはせかす。


「……アリシア」


 とくん。
 瞬間、心臓が飛び跳ねた音を聴いた。
 思いの外、セラスの声が甘かった。
 だから、不覚にもアリシアの心臓は鳴った。
 歓喜の音楽を、奏でた。

「い、言えましたよご主人様ー!
 これで許してもらえますかー!?」

 次の瞬間、この声で夢は終わったけれど。

「ああ、そうね。
 許してあげるわ」
 よしよし、とアリシアは半泣きになっているセラスの頭を撫でた。 

 これから、少しづつ慣らしていけばいいわね。

 盛大に溜息をつきながらも、アリシアはそう考えていた。



 寒い日の、二人の日常。
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