指
その時自分は、指示通りに動くことしか許されなかった。「陸遜」
名を呼ばれて、少年はハッと振り返った。
柱の影から見える姿に、胸が高鳴った。
「姫様。
もう歩いても……?」
「ええ、大丈夫よ。
熱も下がったし、傷口もふさがってるわ」
「そう、ですか」
新緑色の瞳を和ませた少女を見て、陸遜はほっと息をついた。
太陽が真上から少し傾いている頃。
少年と少女は院子の東屋にいた。
吹く風は優しく、花の甘い香りが渡る。
陽射しは柔らかく、まるで少女の微笑みのようだった。
春そのものと言った天気。
誰しも喜ぶ気候だというのに、少年の表情はすぐれなかった。
「もしかして、気にしてる?」
椅子には腰掛けずに、柱によりかかったまま少女が尋ねる。
少年は、石卓に肘をついて答えた。
「……ええ」
「陸遜は悪くないわ。
今回の怪我だって、ちょっと無茶しただけだし。
なのにどうして、陸遜が落ち込んでるの?」
尚香は悪びれもせず言う。
それに、陸遜は苦笑いするしかなかった。
先の戦のことだった。
伏兵が本陣近くに現れた。
共に戦っていた尚香は、そちらの救援に向かうよう、指示された。
そして、大きな怪我を負った。
本当は、駆けていく少女を追いかけたかった。
傍に付き従って、彼女を危険から守りたかった。
けれど、自分に与えられた領分は違った。
この場所を守り抜くこと。
命令は絶対。
破ることなど、ありえなかった。
自分はまだ幼く、地位も実力もない。
上が決めたことは遵守するのが当たり前。
それでも、陸遜は悔しかった。
守りたかった。
守れなかった。
傍にいたかった。
いられなかった。
あの時動かなかったからこそ、戦は孫呉の勝利という形で終わった。
仲間にも主君にも、賞賛の言葉をもらった。
それなのに、それなのに。
どうしても素直には喜べなかった。
「守りたかったんです」
少年は少女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
どこまでも続く草原のような色の瞳は、見開かれる。
「作戦は守ったじゃない。
おかげで戦にも勝てたし。
それじゃ不満?」
「ええ、不満です」
問いかけに、はっきりと答える。
とにかく不満で仕方がない。
自分はこれほどまでに無力だったのかと、思い知らされた。
あんな思いは、二度としたくない。
失うかもしれない。
もう逢うことは叶わないかもしれない。
そんなことを考えるのも、味わうのも。
絶対に嫌だった。
「陸遜て頑固者だったのね」
尚香はくすりと笑う。
新しいことを発見した、という顔で。
彼女が、一つ年上だということを思い出させる表情に、陸遜は視線だけを逸らす。
「とにかく、姫様はもうお戻りください。
完治するまでは、大人しくしていてもらいます」
すっと立ち上がり、陸遜は少女に告げる。
「はいはい。
じゃあしばらくは、ゆっくりと休ませてもらうわ」
居心地の悪い笑い声を聞きながら、陸遜は少女の傍に立った。
もっともっと努力して。
もっともっと上を目指したい。
愛しい少女を守るため。
少女が愛する呉の地を守るため。
指示を出せる立場に早くなりたい。
陸遜はそう、胸に誓った。