私のため、貴方のため 〜ミレニアムエディション〜

「張コウ」
 呼んでから、思わず手を口に当てた。
 音にするつもりなど無かった。
 なのに声は相手に聞こえていたらしく、呼ばれた男はこちらを振り返った。
「これは太子。
 いかがされました?」
 春らしい穏やかな日差しが地を照らす。
 胡蝶蘭が咲き乱れる中、男とは思えぬ美を備えた者が立っていた。
「……いや、何でもない」
 ついと顔を背ける。
 用があったわけではなかった。
 だから、曹丕はそう答えた。
「そうですか。
 何やらお悩みのように見えますが」
 声の方をもう一度見れば、男は笑っていた。
 嫌味ではなく、普段と変わらない表情。
 そんな印象だった。

「そう、見えるか?」

 まだ何も言っていない。
 一瞬、そう言おうとして曹丕は口を噤んだ。

「ええ。
 少なくとも私には」

「そう、か。
 ならばそうなのかも知れぬな」

 口元を歪ませる。
 悩み。
 今心にある感情をそう言われ、曹丕は自嘲した。

 風が二人の側を通り過ぎる。
 暖かな風は胡蝶蘭を揺らし、強い芳香を運ぶ。

「訊かぬのか?」

 しばしの沈黙の後、曹丕は尋ねる。

「訊いて欲しいのですか?」

「そうなのかも、知れぬ」

「私には助言は出来ても答えはお出しできません。
 それでもよろしいのですか?」

「ああ」
「ただ一つ言えることがあります」

 将軍とは思えない程しなやかな指が、胡蝶蘭の花弁をそっとなぞる。

「何だ?」

「花には土と水と光が必要です。
 甄姫殿が美しい花ならば、貴方は土であり水であり、光。
 それで充分でしょう?」
 男はこちらを見る。
「過ぎる水や光は花を枯らす」

 必要なものでも、度を越せば大切なものを滅ぼしてしまう。

「枯らしてしまえば永久に花は貴方のもの。
 それではご不満ですか?」
 挑戦的なその視線が、少し気に障る。

「花は咲いてこそのもの。
 枯れてしまっては意味がない」
 曹丕は不機嫌に答える。
 そこまで我がままなつもりはない。
「そうですね。
 では花自身に訊いてみたらいかがですか?」
 張コウは軽く腕を組み、考える格好をする。

「訊けるわけがない」

 そんなことが出来るなら、こんな感情など生まれない。
 最初から悩んだりなどしない。
 訊けないからこうしてここにいるのだ。

「拒まれるのを恐れているから、ですか?」

 本当のことを、はっきりと言われた。
 太子としてではなく、一人の人間として自分を見ている。
 そんな気がした。

「……そうだ」

 認めるのは悔しかったが、それは事実。
 曹丕は首を一回だけ縦に振った。

「案外、花は欲深いものですよ。
 たった一人のために咲き誇りたい。
 そう願っていました」

 男は笑い、また胡蝶蘭に視線を戻した。
 咲き乱れる花たちを、見渡す。
「それが私とは限らない」
「頑固ですね」
 溜息が一つ吐かれる。
「何が言いたい」
 むっとして、男を睨みつける。

「いえ。
 では、これからなればよろしいのでは?」

「!」

 何でもないことのように、男はあっさりと言った。
 その発言に、曹丕は驚きを隠せなかった。

「いけませんか?
 それとも、その自信もないと仰るのですか?」

 『これから』。
 簡単に言ってくれる。
 口元から笑みがもれる。

「いや。
 そうだな」

「満足ですか?」

「ああ。
 面白いことを聞かせてもらった」

「お気に召していただき光栄です。
 では、胡蝶蘭の薫りを身に纏い、私はここから去ることにしましょう」

「張コウ」

「何でしょう?」

「いや。
 礼を言う」

 ぽつりと呟くと、目の前の男は意外そうな顔を見せた。
 問おうとしたがそれは遮られた。

「どういたしまして。
 では、成功を祈っておりますよ」

 頭を下げ、男はひらりとその場から去っていった。

 一陣の風が吹く。

 胡蝶蘭は尚も自らを誇示するように、風にむせ返る程の薫りを運ばせていた。
 曹丕はすべらかな花弁に手を伸ばす。

「私のためだけに咲いてもらうぞ」

 その笑みに、迷いは見えなかった。

エイビさまの作品「私のため、貴方のため」の続き(?)を恐れ多くも書かせていただいた作品。
エイビさまの書くお話、丕甄に限らず大好きですvv

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