青い花

 それはまだ、陽の昇り始めて間もない頃。
 早めに朝議を終え、曹丕は回廊を渡っていた。

「また戦か」
 ぽつりと、皇帝が呟く。
 隣にいた痩身の男がそれに答える。
「そうですね」
 短く、的確な答えだった。
 風は冷たく、陽の光は淡い。
 春らしく、空には薄く雲が棚引いている。

「……」

 ふと園林の方に目をやると、曹丕は立ち止まった。
 早朝の柔らかな陽射しの下で煌く、一輪の花に目を奪われたから。

「いかがなさいました?」
 怪訝な表情の男に、曹丕は言葉を続ける。
「いや、あの花……」
 そこまで言って、青年は言葉を切った。

 言葉を形にしても詮無きこと。
 今は忙しい。
 自分の我儘は押さえなくてはならない。
 この身は、自分のものであってそうではない。
 王は民のために存在するもの。

 横で控える男の視線が、鋭くこちらを見ている。
 歩みを進めることを促しているのだろう。

 愛する者の髪を飾りたい。
 そんな小さなことすら、叶えることを許されない。

「あれが何か?」
「何でもない」
 問いかけた男を制し、曹丕は歩き出そうとした。
「いってらっしゃいませ。
 ただし、半刻ですよ」
 大きな溜息の後、痩身の男は声を発した。
「仲達?」
 その表情は、明らかに呆れていた。
「急いで決済をするような案件は終わりました。
 半刻くらい、お休みになっても大丈夫でしょう」

 言わずとも、この男には分かったのだろう。
 教育係りとは、難儀な役柄だ。

「いいのか?」
「連日の激務でお疲れでしょう。
 倒れられるよりはましですから」
 持った羽扇をゆったりと揺らし、仲達は言った。
 この男なりの、気遣いなのだろう。
「すまぬな」
「はて、何のことやら」
 ついと顔を背け、男は答える。
 その様子に、皇帝は僅かに口元を和ませた。
 笑みを湛えたまま、曹丕は園林に向かって行った。




 朝も早い頃。
 甄姫はいつものように髪を梳いていた。
 長く艶やかな髪が、微かに吹く風にさらわれる。

 傾国の美女と賞される女は、深い溜息をつく。
 院子を見れば、そこには咲き乱れる花たちがいる。
 その様子はとても楽しげで、甄姫は思わず羨んでしまった。

 ここ数日。
 夫である曹丕はとても忙しい毎日を送っていた。
 戦が近いらしく、寝所にまで仕事を持ち込んでいるようだ。
 どこからともなく流れる噂を、甄姫は耳にしただけだったが。

 もう一度、甄姫は溜息をつく。
 たった一人の我が君に、逢いたいと願いながら。



「甄」

 聴き慣れた声が耳に届いた。
 空耳かと思った。
 けれど、振り返ればそこには確かに存在していた。
 愛しいただ一人の夫君が。


「我が君、突然どうなさいましたの?」
 嬉しさのあまり、取り乱してしまいそうになった。
 その胸に飛び込んで、思いのたけを打ち明けてしまいたいほどに。
 それをしなかったのは、曹丕の顔が以前より少しやつれているように見えたから。

「突然、甄に会いたくなった」
 幼子のような答えに、甄姫は思わず微苦笑する。
「あら、らしくありませんわね」
 微笑み、すぐ傍に寄り添う。
 間近にあるその温もりが、愛おしくて仕方なかった。
「これを甄に渡したいと思ってな」
 すっと出されたのは一輪の花。
 朝露をのせた花弁に、芳しい香り。
 初めて見る色の花だった。
「そなたに似合いの花だと、一目見て思った」
 瞳を輝かせ、花を差し出す青年は皇帝には見えなかった。
「嬉しいですわ、我が君」
 胸の内が、熱くなるのを感じる。
 髪に、青年の手が触れる。
 大きく、そして温かな指。
 持っていた花が手から消える。
 それを見て、まとめかけていた髪に花があることを知った。

「どんなに美しい花でも、そなたの隣にあっては色あせるな」
 肩を抱かれ、耳元で囁かれる。
 くすぐったい感覚に、笑みが漏れる。
「今日はどうかなさいましたの?
 とてもご機嫌ですわね」
 頬に大きな手が触れる。
 甄姫も、それに手を合わせる。
 確かな温もりが、伝わってくる。
 肩に、頬に。
 そして掌に。

「甄が傍にいるから、では理由にならないか?」
 楽しそうに笑う声。
 慈しむような声音が、胸の奥まで響く。
「充分ですわ、我が君」
 大切なその名を、そっと音にした。


 二人で紡ぐは最上の音。
 高らかに響かんと願いつつ。
 仲良き夫婦は永久に誓う。
 愛すべき人は唯一人と――。

当時月子さまのサイトにあった拍手絵を元に書かせていただきました!
ものすっごくラブラブな丕甄絵だったので、えへv
いつもファイル名をちゃんと付けないおかげで、タイトルはうろ覚えだったり(^_^;)
あ、合ってるといいな!

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