秋風吹きて
江東の二喬と賞される少女が、一人回廊を渡る。手には盆。
その上には茶器と果実があった。
大喬は、忙しい夫の部屋に向かっていた。
ここずっと、寝る間も惜しんで働いている孫策の元へ。
さあっと風が渡る。
江東は暖かい地方ではあるが、秋の夜ともなれば涼風が吹く。
心地良いそれに、少女は目を細めた。
「もう、秋ね」
呟きは静寂に溶けていく。
回廊に落ちている葉は、紅。
月明かりに照らされた木々も、自らを着飾っている。
季節の変わっていく様に、大喬は胸を躍らせた。
ほんの少し、寂しいと思いながらも。
「孫策さま」
戸の前で声をかける。
影が動き、すぐ目の前まで来た。
少し大きな音をたてて、戸が引かれた。
「大喬。
どうしたんだ?」
驚いた夫の表情が可愛らしくて、大喬はくすりと笑った。
「お茶をお持ちしました」
言うと、孫策に入るよう促された。
いつもより乱雑なそこに、大喬は夫の忙しさを目の当たりにした。
開かれたままの竹簡と、積み上げられた竹簡。
寝台からはがされた掛け布。
散らばっている削りくず。
胸が、ズキンと痛んだ。
「……大変そうですね」
手早く茶を注ぎながら、ぽつりと呟く。
仄かに香るは、桂花の香。
疲れた体を少しでも癒して欲しい。
そのために持って来たものだった。
「うん、まあな」
何でもないことのように、孫策が言う。
その手の中には、いつの間にか桃があった。
お茶が入るまで待てなかった、という感じだった。
「私にも、何かお手伝いできませんか?」
はい、と茶器を差し出しながら大喬は告げた。
揺らめく灯りの元、夫の顔がほんの少し細く見えたから。
だから、思わず言ってしまった。
「心配するなって。
大丈夫だ」
はっきりと、孫策は言い切った。
本当に大丈夫そうだと思える、明るい笑顔。
また、胸がズキッと痛んだ。
「でも……」
夫の言葉に、大喬は俯いた。
手にしていた盆をきゅっと握りしめる。
無理をしないで。
無理をしないで。
伝えたい気持ちが、うまく伝わらない。
そのもどかしさだけが、心の中に渦巻いている。
「何かあったのか?」
「え?」
すぐ近くから、声が降ってきた。
驚いて顔を上げてみると、そこには孫策の顔があった。
「顔に書いてあるぜ」
つん、と軽くおでこをつつかれる。
「そう、ですか?」
つつかれたところに触れながら、大喬は訊いた。
「ああ、おもいっきりな」
にかっと笑って言う夫。
大喬は諦めたように笑ってみせた。
「孫策さまには、何でも分かっちゃうんですね」
「そりゃー、お前のことだからな」
優しい瞳を見つめる。
そこにあるのは、温かなもの。
嬉しくなって、大喬は声を出して笑った。
言って、いい気がした。
この人に隠し事はできないから。
何でも見通すことのできる、澄んだ瞳を持つ人だから。
孫策に椅子を勧められると、大喬はそこに座った。
夫は仕事の手を止め、真っ直ぐにこちらを見ていてくれた。
幸福感が心を満たしていった。
「……白状すると、ちょっと寂しかったんです。
孫策さま、ずっと忙しそうでしたし」
苦笑交じりに、大喬は告白した。
「そっか、悪かったな」
「いいんです。
お仕事は大切ですし、それに……」
言いかけて、少女は言葉を切った。
「それに、何だ?」
心底不思議そうに、孫策が訊いてくる。
自分に問いかけてくれたことが、興味を持ってくれたことが嬉しくて。
大喬はそっと微笑んだ。
「こうしてお話を聴いてくれたので、充分です」
「こんなんでいいのか?」
「ええ」
本心を伝える。
忙しいのに、彼が気にかけてくれた。
目と目を合わせて、ゆっくりと話ができた。
本当にそれだけが嬉しかった。
「お前は欲がねえんだな」
「そんなことないと思いますよ」
「そっか?」
視線が合う。
何となくおかしくて、大喬は声を出して笑ってしまう。
同時に、孫策も声を上げた。
「もう少し、あと少し待っててくれねーか?」
ひとしきり笑ったあと、彼がじっとこちらを見つめた。
「え?」
真剣な眼差しと出逢う。
胸が、とくんと鳴る。
「周瑜と約束したんだ。
今ここにあるやつだけ終わったら、半日ぐらい時間がもらえる」
「それって……」
また、とくんと鼓動が跳ねる。
期待が胸にあふれ出しそうになる。
「もちろん、お前と過ごすために決まってるだろう?
……親父が死んでから、あまり一緒にいてやれなかったからな」
寂しそうに笑った彼。
鼓動は、少しずつ早くなっていく。
「本当、ですか?」
「嘘ついてどうする」
返ってきたのは、待っていた答え。
期待は外れなかった。
ぽろり。
一雫、こぼれる。
ぽろり、ぽろりと次々に落ちてくる。
瞳は潤んで、前がよく見えない。
大好きな、大好きな人の顔がかすんで見える。
ちゃんと、ちゃんと見ていたいのに。
「おい、大喬!?」
慌てた彼の声が聞こえて、大喬は目の端を押さえた。
「ごめんなさい、嬉しくて、つい」
声が震える。
ずっと溜まっていた何かが、落ちていく。
胸の奥のつかえが、全部落ちていく。
「まぁ、何だ。
こういう涙ならいいけどよ」
ふわり、と温かいものに包まれる。
気がつけば、大喬は孫策の腕の中にいた。
「ありがとうございます、孫策さま」
やっとのことで、礼を言った。
数日後、二人は江に出かけて行った。
幸せそうに笑い合う、夫婦の姿がそこにはあった。