静
静寂は、壊された。長い沈黙を破り、蜀の陣を朱い獣が駆けていった。
紅蓮の炎が、大地を舞う。
聞こえてくるは、狂気の叫びと驚喜の声。
蜀の陣は燃え盛る。
逃げ惑う兵に、呉の指揮官は追撃の命を下す。
「各軍、このまま白帝城まで攻めあがるのです!」
よく通る声に、呉の兵たちは声を上げた。
「これで、呉の勝利は決まった……」
ぽつり、と少年が呟いた。
陸伯言。
この戦いの指揮官である、弱冠の少年。
陸遜は、適度な高揚感に包まれていた。
「行くわよ、陸遜!」
馬の蹄の音と共に響いたのは、少女の声。
孫呉の姫君、弓腰姫の高らかな声だった。
「姫様!?」
突然のことに、陸遜は驚きを隠せなかった。
「何驚いてるの?」
平然と、さも当たり前のように、尚香が言う。
見上げた瞳は、炎の中でさらに輝いていた。
緑柱石のように、美しい緑。
純粋な眼差しは一点の曇りもない。
陸遜は、一つ溜息をついた。
「……姫様の部隊は、本陣近くに配置したはずですが?」
尚香が、馬から降りる。
どうやら、話を聞いてくれるらしい。
「あら、私が突っ込むことなんて、いつものことじゃない。
忘れちゃったの?」
とん、と軽い音がする。
以前のような、明るい笑顔で尚香は笑った。
「そういう訳ではありません!」
はっと、陸遜は口を押さえた。
怒鳴るつもりなど、なかったのに。
後悔の念から、少年は唇を噛み俯いた。
「言っておくけど、私は孫呉の姫よ?
覚悟くらい、当の昔にできてるわ」
静かに告げられた言葉に、そっと顔を上げる。
目の前の少女は、寂しそうに笑っていた。
「姫様……」
ただ、彼女を呼ぶことしか出来なかった。
心の底から笑って欲しい。
彼女の悲しみを拭い去りたい。
そう思うのに、かける言葉が見つからなかった。
「優しい陸遜、そういうところ大好きよ。
でもね、今日だけは行かせて。
ちゃんと、決着をつけたいの」
放たれた言葉が心に直接響く。
孫呉の遺志は、彼女の意志。
何人たりとも揺るがすことは出来ない。
陸遜は苦笑しながら、尚香の瞳を見つめた。
「今日だけ、は余計ですよ」
燃え続ける炎を背に、少年は言う。
「それもそうね」
少女もまた、笑って答える。
変わらない。
何も知らなかった頃と彼女も、自分も。
「まったく、仕方ありませんね。
行きましょう」
決意の込められた深緑の瞳。
それに映る炎を見据え、陸遜は笑った。
「そうこなくっちゃ!
さあ、孫呉の力見せてやるわよ!」
高く振り挙げられた手を、少年はじっと見つめた。
静寂は、壊される。
今、少女の手によって。