乱世の恋

「名を何と言う?」
 男というにはまだ少し幼い気がする青年が、こちらを見つめて言った。
「……ありませんわ、そんなもの。
 捨てましたわ」
 顔を背け、傾国の美女と噂される女は言い放った。
「そうか」
 女の答えに動じることなく、青年は笑みを浮かべた。
「では、甄と呼ぶとしよう。
 今からそれがお前の名だ」
 身勝手な物言いに、女は反論しなかった。
「……ご勝手に」
 目を背けたまま、それに応じた。


 この曹魏に、甄姫が連れて来られた折のことだった。



「甄」
 怜悧と称される声に、名を呼ばれた。
「我が君。
 いつからそこに?」
 甄姫は奏でていた笛を膝元に置く。
「先ほどからだ。
 麗しい、調べだな」
 夫が、すぐ横に腰をかけた。

 ここは園の中にある東屋。
 甄姫は春の暖かな陽気に誘われて、笛を奏でていたのだ。

「褒めていただけて光栄ですわ」
 にこりと微笑んでみせる。
「本当のことを言ったまでだ。
 そなたの調べは何者にも勝る」
 子桓もまた、笑んだ。

 風がそよと吹き、葉擦れの音を生む。
 茶の髪が、静かに渡る風にさらわれる。
 それを合図にしたように、皇帝は視線を移した。
 どこを見ているのか、何が見たいのかは分からない。
 銀青色の瞳は、ただ視線を泳がせていた。

 自分を見て欲しい。
 せっかくこうして二人きりなのに。
 甄姫は曹丕の見つめる「何か」に嫉妬を覚えた。
 形すら見えないものに妬くなど、愚かなこと。
 そんなことは分かっていたが、そう簡単に止められるものでもなかった。

 そういえば……。

 誰もが想いを寄せずにはいられない美貌をもった女は、ふと思った。

 いつからだろう、この青年の眼差しを独り占めしたいと思うようになったのは。
 甄姫は、手の中の笛に視線を落とした。


 逢った瞬間、強い人だと分かった。
 戦って負けた時は、はらわたが煮えくり返るほど悔しかった。
 が、なぜかそれを当然の結果だったと思う自分もいた。



 曹魏に来て、彼の妻となった。
 負けた時の悔しさは、次第に薄れていき、後に残ったのは心服だった。
 強い魂に、心は惹かれていった。


 いつしか、その感情も変化した。
 瞳の奥に宿る、氷のように頑なな感情を溶かしてみたい。
 ずっと、そればかり考えるようになった。
 同じ戦場に立ち、同じ目線で物事を見ようとした。
 彼を理解するために。

 気がつけば、恋という名の情熱が自分を支配していた。


 人は、変われば変わるもの。
 「袁家」という名の下、つまらない毎日を過ごしていた自分。
 女の幸せというのはそれで良いと、誰もが言った。
 だから、自分もそう思おうと努力していた日々……。


 今では、天下を一つになしえた皇帝の妻。
 覇王に寄り添う麗しき佳人と賞される。
 思わず笑みがこぼれる。


 「幸せ」とは、こういうことを言うのだろう。

 ふと、一つの答えが頭をよぎる。

 思い起こせば、あれは「幸せ」などではなかった。
 きっと、今この瞬間こそ「至福」と言えるのだろう。


 視線を戻す。
 夫は、相も変わらず視線を定めていない。
 甄姫は、それをこちらに向かせたくて口を開く。

「我が君」

 この世でたった一人の存在と言う意味で、夫をそう呼んでいる。
 青年は、ゆったりとした動作でこちらを振り仰いだ。

「愛してますわ」

 銀と瑠璃を溶かしてはめ込んだような瞳が、一瞬見開かれた。
 その表情は、まるで幼な子のよう。

 甄姫は微苦笑しながら、それをじいと見つめた。

「私も、だ」

 短く音が紡がれた。
 落ち着いたその声が、微かに上擦って聞こえたが、それは言わずにいよう。

 二人は、温かな微笑みを交わした。



 時は群雄割拠。
 数多の英傑たちが現れては消えていった、過酷な時代。
 幾度となく戦は繰り広げられていった。
 英傑同士の戦は、いつしか終結を迎えた。

 最後にそれらを統べた者は、冷徹な男だったという。

 姓は曹、名は丕、字は子桓。
 生まれながらに天子の名を持つ者。
 その男の手によって、天下は一つとなった。
 戦乱の世に、新たなる幕が降ろされたのだ。


 冷酷無比の男の傍には、いつも一人の女がいたという。
 知勇に優れ、楽を愛した佳人。
 その肌は玉のように美しく、凛とした気風を持った女人だったと伝えられている。

 二人は子宝にも恵まれ、命尽きるまで仲睦まじく暮らしたという。
 司馬一族の支えもあり、曹一族は何代にも渡って、繁栄を極めた。


 初代皇帝の、たった一人の后の名を「甄」といった。
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