一夜分欠けた月
飛空都市に、異例の事態が起きた。ここは、女王試験のために特別に作られた空間。
女王の加護により、宙に浮く島。
周りにはバリアが張られ、周囲から一切の関与を許さない場所。
それなのに、雨が降った。
一時とはいえ、それは人々の心を乱した。
特に、守護聖たちの。
その日の夜。
生い茂る緑にいまだ雫が残る中、オスカーは一人散策に出かけた。
昼間の一件を思い出しながら。
突然の雨。
それが何を意味するか、オスカーは気がついていた。
宇宙の崩壊。
自分の考えに、思わず身を震わす。
女王陛下のお力が、翳りを見せている。
気がつきたくなかったが、気づかされてしまった。
真実はすぐそこまでやってきている。
早く、早く次の女王を決めなくてはならない。
そのために出来ることはただ一つ。
女王候補の力になること。
それしかなかった。
悔しさに、オスカーは唇を噛みしめる。
「オスカー様!」
突然、自分を呼ぶ声がした。
驚いて、声の方を見れば、金の髪の女王候補だった。
「お嬢ちゃんか……」
ふうと溜息をついて、オスカーはいつものように笑ってみせた。
この少女まで不安にさせてはいけない。
直感的にそう思った。
気がつけば、自分は公園まで来ていたらしい。
女王陛下の像が、月光の下で煌いている。
雨の雫が、ちょうどティアラのように見えた。
「こんな時間にどうしたんだい?」
オスカーは目の前の少女に視線を移す。
「散歩です。
雨の降った後って、すごく気持ちいいから!
それに、月が見たかったんです」
いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
彼女は知らないのだろう。
この地に降る雨が、一体何を意味するのか。
出来ればこのまま知らないで欲しいと、オスカーは密かに願った。
「月、か。
お嬢ちゃんはロマンチックだな」
ごまかすように、口元を上げて笑う。
「そんなことないですよ!
あ、知ってますか、オスカー様?」
どこまでも明るい少女は、金の髪を夜風に揺らし、話しかけてくる。
「何をだい?」
「フルムーンから、一夜分欠けた月のことです。
ちょうど今日の月のことなんですけど。
人を惑わすって言われてるんですよ」
嬉しそうに話しながら、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。
恋を知らない、無垢な瞳。
緑柱石のようなその色に、吸い込まれそうになる。
「それは初めて聞いたな」
「実は、この前ルヴァ様に教えてもらったんですけどね」
幼さを残す少女は、ちろりと舌を出す。
そして、ほんの少し頬を染めた。
「お嬢ちゃんは俺を惑わしたいのかな?」
純粋な少女を見ていると、からかってみたくなる。
何も知らないお子様に、「恋」を教えてみたい。
そんな欲求にかられて、オスカーは口元に笑みを作った。
「え?」
「安心しな、お嬢ちゃん。
月の力がなくても、俺は充分に心を乱してるぜ。
君のその笑顔でな」
とっておきの笑みと、ウインクを少女に贈る。
「も、もう。
オスカー様ってば」
金の髪の少女は、顔を赤らめうつむいた。
その表情は、色気があるというよりも可愛らしいものだった。
「フッ。
照れた顔も可愛いぜ、お嬢ちゃん」
「か、からかわないでください!」
頬を染めたまま、少女はそっぽを向く。
「本気だったんだがな。
なら、こう言えば信じてくれるかい?」
もう少し、この少女で遊んでみたくなり、オスカーは笑みを消す。
緑柱石色の瞳をじっと見つめ、声を落として囁く。
「アンジェリーク」
一度も呼んだことのない、少女の名前。
オスカーはそれを愛しげに音にした。
「えっ……?」
一瞬、彼女が見せた表情に、オスカーは目を奪われた。
声と共に、少女が振り返る。
金の髪が揺れ、甘い香りが届く。
照れた表情からは、微かな色香が漂っていた。
「……どうやら効果は覿面だったみたいだな」
フッと笑って見せ、素知らぬ顔で視線を逸らした。
「もうっ!
オスカー様なんて知りません!!」
いつもと変わらない少女らしい怒鳴り声に、オスカーは安堵した。
「ハハ。
さて、名残惜しいが部屋まで送ろう」
少女の頭に、ポンと手を乗せる。
「えっ?」
きょとんとした顔で、少女がこちらを見上げる。
「もうそろそろ、お子様は寝る時間だぜ」
「子どもじゃないですっ!!」
「むきになる時点で、充分にお子様だ。
さ、寮まで送ろう」
「はい」
むー、と頬を膨らませて少女は頷いた。
その微笑ましい様子に苦笑しながら、オスカーは彼女の背を押した。
金の髪の少女が、一瞬だけ見せた大人の色香。
それはきっと、一夜分欠けた月が見せた幻。
いつしか忘れてしまう、一夜の夢。
少女は、この宇宙の女王になる存在なのだから。
オスカーはそう自分に言い聞かせながら、少女を送り届けた。