鏡のような月
緋色の魔導士、キール・セリアンは今、ものすごく不機嫌だった。キールは、元からあまり愛想のいい方ではなかった。
が、今日はそれにも増してずっと不機嫌だった。
原因は、自分の被保護者である、藤原芽衣。
いつの間にか、渡しておいた課題をほったらかしにして、遊びに出かけていた。
それだけならまだしも、今日はまだ帰ってこない。
いつもなら、門限ぎりぎりには帰ってきているというのに。
確かに、芽衣は不真面目な生徒で、手のかかる奴だった。
だが、今まで一度たりとも門限を破ったことはなかった。
不思議なことに。
あいつなりの考えがあってのことなのか、ただの偶然なのか。
そんなことは分からなかったし、知りたいとも思わなかった。
ただ、一つ分かること。
それは、今彼女に何らかのことが起こっているということだった。
感情的なものなのか、それとも外的要因があるのか。
どっちにしろ、キールはイライラしていた。
芽衣が帰ってこない。
その事実が、青年の心を乱していた。
「遅いっ!」
キールは、自室をうろうろと歩き回りながら大声を上げた。
もう、何度こう言ったか分からなかった。
「たく。
今何時だと思ってるんだ!」
腕を組み、悪態をつく。
一体どれくらいこうしているのか。
自分でも分からない。
「……」
部屋にかけられた時計に、ちらと視線を移す。
門限の時間はとっくに過ぎている。
「……仕方ない、行くか」
覚悟を決めたように、キールは外に出た。
院を出ると、爽やかな風が自分を迎えた。
夏らしい暑さはなく、心地良い風だった。
「どこに行ったんだ、あいつは?」
ぶつぶつと呟きながら、キールはランプを片手に歩き出した。
今日はいつもより道が明るい。
ふと、キールは思った。
それでも、十分な明かりを求めることは出来ないが。
芽衣の世界では、夜になるとランプが常に道を照らしていると聞いた。
いつかこの世界にも、そんな文明をもたらしたい。
キールはそんなことを思ったのを思い出した。
しばらく歩くと、人影が見えた。
何もない道に一人。
夜空を見上げる人物がいた。
「あ、キール♪」
能天気な声が自分を呼ぶ。
そんな奴は、たった一人しか考えられない。
藤原芽衣、だった。
「芽衣!!
お前今まで何してた!?」
ふつふつと沸きあがる怒りに任せ、キールは怒鳴り声を上げた。
「あれ?
もしかして、門限過ぎてる?」
「当たり前だ!
何してたんだ、今まで!」
「ゴメンゴメン。
月見てたんだ!」
どこまでも明るく、少女は言い切った。
本気で謝る気があるのかないのか。
キールは盛大な溜息をついた。
「月だと?
お前いいかげんに……」
そこまで言って、キールは言葉を失った。
ランプと、月の光に照らされた彼女が、とても寂しげな表情を浮かべていたから。
「ほら、今日って満月でしょ?
だから、ついお月様に見惚れちゃったってワケ」
やっぱりにこやかに、少女は言った。
キールは気がついてしまった。
彼女が、自分の世界のことを思い出していることに。
「全く、お前らしいな」
やっとのことで言えたのは、そんな言葉だった。
慰めの言葉なんて言えなかった。
何しろ、自分が原因でこいつはここにいるのだから。
「そうかな?
こっちのお月様って大きいよね〜。
あっちにいたら、こんなでっかいお月様見られなかったんだね!
ワタシってラッキー♪」
少女はニコニコ笑っている。
平気なはずないのに、辛いはずなのに笑っている。
それが痛々しくて、見ていられなくて。
キールは空に視線を移した。
芽衣の言った通り、そこには大きな万円の月がいた。
28日に一回は見られるそれ。
キールにとっては、いつもと同じ風景だった。
「寂しくないか?」
唐突な質問だった。
言うつもりなんてなかったのに、なぜか声として形になってしまった。
「え?」
その声を聞いて、キールは芽衣の方を見た。
少女も、驚いていた。
沈黙が二人の間を支配した。
風も、木々のざわめきさえもピタリと止んだ。
「……寂しくないよ」
しばらくして、芽衣はそっとささやく。
いつもとは違い、『微笑』を浮かべながら。
キールは、思わずドキッとした。
「だって、キールがいるし!
それに、ディアーナも、シルフィスも、アイシュも!
みんながいるから大丈夫だよ☆」
また、いつものように芽衣は笑った。
顔のパーツを全部使って、思い切り笑った。
それに、キールはほっと胸をなで下ろした。
「能天気な頭で良かったな。
さ、帰るぞ」
「あ、ちょっと待ってよ、キール!」
少女に構うことなく、キールは歩き出した。
芽衣が少し後ろをついて来た。
満月の晩のこと。
キールはもう一度、心に決めた。
芽衣を、元の世界に戻してやると。
こいつに、寂しい思いはさせたくない。
だから、帰してやると。
例え、それが自分にとっては辛いことでも――。
そう、エーベの神に誓ったのだった。