君が開く扉
「お兄様なんて、大嫌いですわ!」執務室に、末姫の怒鳴り声が響き渡る。
それと同時に、薔薇色の髪の少女はこちらに背を向けた。
「待ちなさい、ディアーナ!」
この部屋の主は立ち上がり、慌てて少女の背を追いかけようとする。
が、あと一歩足らず扉は目の前で閉まった。
「……一体何があったんだ?」
青年はそれ以上追うことはせず、ただ溜息をついた。
ことの発端は、妹が執務室に遊びに来たことからだった。
***
「お兄様」
薔薇色の髪の少女が、扉の隙間から顔を出す。
何か嬉しいことでもあったのか、少女は上機嫌だった。
「どうしたんだい、ディアーナ?」
ふと書類を処理する手を止め、妹を見つめる。
いつになく、笑顔が輝いている。
「今日が何の日か知っていまして?」
ディアーナは、笑みを零して告げる。
少女を落胆させたくはなかったが、セイリオスは正直に答えることにした。
「さあ、何だったかな?」
そう言って、また書類と向き合う。
まだ時刻は午後を少し過ぎたばかり。
やらなければいけない仕事は、山ほど残っていた。
「本当に知りませんの?」
鳥のさえずりのように愛らしい声が降ってくる。
セイリオスは顔を上げ、もう一度答えた。
「ああ、すまないね、ディアーナ。
本当に分からないんだよ」
考える暇を惜しみ、青年は仕事を続ける。
せめてここにある書類だけは、今日中に終わらせたい。
偽りの皇太子であるという事実だけが、書類に向かう原動力となる。
「ひどい……ですわ」
掠れた声に驚いて、セイリオスは少女の方を見上げる。
と同時に、思わず目を見開いた。
「ディアーナ?」
紫水晶よりも美しい瞳には、大粒の涙が溢れていた。
今にもこぼれそうな雫を見て、青年は立ち上がる。
「どう……したんだい?」
動揺してしまい、上手く声が紡げない。
先程まで上機嫌に笑っていた表情は、今涙をこぼしている。
頬を伝う雫を拭おうとした時、少女は弾けるように後ずさった。
「お兄様なんて、大嫌いですわ!」
声を荒げて、少女はそのまま部屋を出て行ってしまった。
***
「今日が一体何だというんだ?」
椅子に座りなおし、事の次第を把握しようと懸命に考える。
やりかけの書類には、もちろん手がつけられない。
妹と向き合って話す暇を惜しんだ罰なのか。
この書類は多分、今日中には終わらないだろう。
「セイル、入るぞ」
扉を叩く音と共に、聞き慣れた声がした。
青年は一つ溜息をつくと、入れ、と言い放った。
「よう、聞こえたぞ。
お前あの姫さんに何しでかしたんだ?」
「それが分かれば苦労はしない」
盛大に溜息をついて、セイリオスは頬杖をついた。
どうして妹が怒ったのか。
その理由が全く分からない。
少なくとも、この部屋に来た時は機嫌が良かった。
それが逆転したのは、自分と話してから。
ヒントは『今日が何の日か』だ。
「お前には分かるか?
今日が何の日か」
目の前で楽しそうに笑っている宮廷魔導士に、青年は問いかける。
最後の望み、かもしれない。
「今日か?
……そりゃ多分あれだろ」
「あれ?」
「お前本当に分からないのか?」
「分からないから訊いている」
「まあ、そりゃそうだな。
仕方ない、このシオン様が教えてやるか」
セイリオスはそれを聴いて、瞳を大きく見開いた。
***
外は暗く、月は空の一番高いところに昇ろうとしていた。
今日という日は、あと少しで終わりを告げる。
その頃、少女は暗い部屋の中で悲しみにくれていた。
「お兄様なんて、大嫌いですわ……」
天蓋つきのベッドに横たわり、少女はぽつりと呟いた。
クッションを抱え、悲しみを紛らわそうとする。
「せっかく……、せっかく王都に来ましたのに」
瞳から涙が溢れそうになる。
悲しくて、寂しくて。
ディアーナはもう一度クッションを強く抱きしめる。
今日は、一年に一度の記念日。
生まれてきてくれてありがとう、とお祝いをする日。
そう教えてくれたのは、幼い日のセイリオスだった。
同じ色の瞳は、優しく微笑んでいた。
そして、毎年言ってくれた。
『おめでとう』と。
やっと離宮から兄の元に来られた。
今年は。
今年こそは、昔のように祝ってもらえる。
ずっと、そう思っていたのに――。
「お兄様なんて……」
少女は何度もその言葉を口にする。
嫌いになることなんて出来ない。
セイリオスは自分の唯一の兄で、とても大切な人。
大好きだから、今こんなにも辛い。
ディアーナはこの苦しみから解放されたくて、「大嫌い」と繰り返す。
兄を嫌いになれれば、寂しくもなくなる。
だから、だから、大嫌いになりたい。
少女は何度も声に出す。
「大嫌い……ですわ」
と。
「ディアーナ」
扉の向こうから、名を呼ばれた。
間違えるはずのない声に、ディアーナの鼓動が跳ねる。
「ディアーナ、まだ起きてるかい?」
控えめなノックと声。
少女は思わず返事をしてしまった。
「起きてますわ、お兄様」
無視してしまおうかとも思った。
そうしたら、このまま兄は帰っていた。
きっと、その方が良かったのだけど、ディアーナにはそれが出来なかった。
やっぱり、嫌いになれない。
「ああ、起きていてくれて良かったよ。
一言だけ、伝えたくてね」
扉越しに聴こえてくる声は、いつもと少し違う。
どうしてだか分からないけれど、鼓動が高鳴り、胸が苦しくなる。
「何ですの?」
ベッドから降り、クッションを抱えたまま扉に近寄る。
セイリオスは部屋に入ってくる気はないようだった。
「誕生日おめでとう。
お前が生まれてきてくれて嬉しいよ」
微かにくぐもった声が伝えたのは、望んでいた言葉だった。
優しい響きを帯びた旋律は、すっと胸の中にとけていく。
欲しかったものが、やっと手に入った。
嬉しさのあまり、ディアーナは扉を引いた。
「お兄様、ありがとうですの!」
幼い頃と同じように、兄に抱きついてお礼を言う。
思い出してくれて、お祝いをしてくれて。
少女はとにかく嬉しかった。
プレゼントはいらない。
ただ、こうして言ってくれるだけで嬉しかった。
おめでとう、と。
「ディアーナ。
すまなかったね」
大きな手が優しく頭を撫でる。
伝わる温もりは、とても心地良かった。
「もういいんですの。
こうしてお兄様は来てくださいましたもの。
それで充分ですわ」
同じ色の瞳を見上げる。
微笑みを湛えたセイリオスは、いつも以上に優しげに見えた。
辛かった。
悲しかった。
寂しかった。
嫌いになりたかった。
それでも、今兄はここにいる。
おめでとうと、生まれてきてくれてありがとうと、祝ってくれた。
自分はここにいていい。
兄の傍にいてもいい。
そう言ってもらえたようで、ディアーナは幸せだった。
「今度、お前に何か贈ろう。
何か欲しいものはあるかい?」
「いいんですの。
お兄様はお忙しいのでしょう?」
問われて、少女は首を振る。
本当にこれで充分だったから。
「そういう訳にはいかないよ。
忘れていたお詫びもかねて、プレゼントさせて欲しい。
どんなものでも構わないよ」
微かに強い口調に、ディアーナは考える。
欲しいものと言われても、すぐには思いつかない。
新しい帽子も、おいしいお菓子も貰ったばかり。
「……それなら、町に一緒にお買い物に行きたいですわ!」
思いついたプレゼントは、『時間』だった。
忙しいセイリオスと、ほんの少しでいいから一緒にいたい。
普通の兄妹のように町を歩いて、ショッピングをしてみたい。
小さいけれど、難しい願いごと。
『どんなものでもいい』という言葉を信じ、少女は思いを形にする。
「分かった。
あと三日ほど待ってくれるかい?」
「はいですわ!」
微笑んだまま、溜息をついて青年が言う。
少女は承諾してくれたことが嬉しくて、笑顔で答えた。
「機嫌を直してくれて良かったよ」
安堵したような表情に、ディアーナはくすくすと笑ってみせる。
きっとすごく困ったのだろう。
今日が何の日なのか分からなくて、悩んでいたのだろう。
自分のことを一生懸命考えてくれた兄が、とても愛おしかった。
「お兄様」
「何だい?」
「もう、絶対に忘れないでくださいませね」
同じ色の瞳が揺れ、和む。
これから紡がれるであろう言葉が予想できて、ディアーナは微笑んだ。
「ああ、決して忘れないよ。
エーベの神に誓おう」
柔らかな微笑みと望んでいた言葉に、少女は笑みを深くした。
三日後、町には楽しそうに歩く兄妹がいたという。
同じ瞳の色の二人の姿は、とても微笑ましいものだった。