生まれたばかりの月

 月とは名ばかりの、とても弱い光が地を仄かに照らす夜。
 橘友雅は、届けられた文の主が建てた邸の庭にいた。

 左大臣の邸、土御門邸。
 見上げれば、そこには生まれたばかりの月。
 そして、数多の星が煌いていた。

 幻想的な一夜だった。




「まるで君のようだ」

 ぱたぱたと扇を開きながら、友雅は告げた。
「私、ですか?」
 隣にいた少女は、不思議そうに尋ねる。
 柔らかな声が耳に届く。
 とても心地良い旋律だった。

「あぁ。
 生まれたばかりだというのに、きちんと美しさを備えている。
 初々しさと、色香が相まって、何とも言えぬ『魅力』がある」

 声のする方に視線を流す。
 彼女を守護するものたちの光に縁取られ、少女は優しい光を宿していた。
 この邸一美しい藤の花は、そっと囁いた。

「友雅、殿……?」

 驚いたのか、恥ずかしかったのか。
 星の姫は、口元を袖で隠す。
 洗練された仕草から、色香が漂う。

「ふふ。
 今日はなじらないのだね」

 本当に、今日の月のようだと思う。
 少女と呼ぶにふさわしい歳だというのに、大人びた表情も持っている。
 しかも、自分ではそれに気がついていない。

 友雅は口元に笑みをはいた。

「べ、別に深い意味はありませんわ」

 ころころと変わる表情に、翻弄されそうになる。
 藤の花の名を持つ少女の芳香に、酔ってみたいと思う。

「そんな君もまた、愛らしい」

 怒った声ですら、優しい音に聴こえる。
 これはもうすでに病なのかもしれない。
 彼女の全てを渇望する自分がいる。
 醜い感情だというのに、煩わしいものではない。
 こうなることを予想していた。
 だからこそ、八葉の務めを終えてからはここを訪れなかった。
 全く、彼女の父君にはいつも頭が上がらない。
 つきかけた溜息をかみ殺す。

「……本当にお上手ですわね」

 小さな溜息と共に、鈴の音のような声がする。
 夜闇に溶けてしまいそうなくらい、ひっそりとした音だった。

「そうかい?
 私はとても不器用な人間だよ」

 くつくつと笑ってみせる。
 器用なわけではない。
 演じるのに慣れてしまっただけだった。

「……そうは、見えませんわ」

「それは良かった」

 まだ、彼女には露見していない。
 本当の自分が、どんなに不器用で、醜悪か。

 安堵しながら、開いていた扇をパチンと閉じる。

「行かれるのですか?」

 少し寂しそうに、少女が言った。
 そう聴こえるのは、自分だけなのだろうか?

「名残惜しいがね」

 心のままに、言葉を紡ぐ。
 笑みを貼り付けたまま。

「また、来てくれますか?」

 たった一言、されど一言。
 藤姫の放った言の葉は、友雅の心を乱すのに充分すぎるものだった。

「嬉しいことを言ってくれる。
 もちろんだよ、愛しの姫君」

 嬉しいと、単純に喜べる自分がそこには確かに存在していた。
 まるで幼な子のようだと、自嘲する。

「本当に?」

 少女は、恋の駆け引きを知っていた。
 嬉しいようで、不安でもあった。
 こういうことを、自分以外の男にはして欲しくないと。

「君を守りし天の星々に誓おう。
 これなら信じてくれるかい?」

「お待ちしていますわ」

 誓いの口上を聞いて、麗しい姫君は穏やかに微笑んだ。
 清風吹きて 星輝く。
 月華 佳人を照らす。
 そんな漢詩の一節が、ふと頭を過ぎる。

「私も、次の逢瀬を楽しみにしているよ」

 笑みを交わして、友雅は邸を後にした。


 牛車に揺られながら、友雅は一枚の紙を取り出した。
 流麗な文字で、歌が一句書かれている。
 夏も終わる頃だというのに、そこには「藤」の文字があった。

「全く、困ったものだね」

 橘少将は、楽しそうに笑って呟いた。





風に散る 花橘の 香ぞを恋う
宿の藤波 色に出ずとも





〜まったく、親子ほど歳が離れているのに、
  うちの娘はこんな男のどこが良いって言うんだい?
  私(父)にはわからないよ。
  それでも、うちの娘が恋しがっているから、
  少しでもその気があるのなら、逢いに来てやってくれ。〜

漢詩&和歌 「奏羅」作
subject by空が紅に染まるとき 月の満ち欠けで5題

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